粉雪
眉根を曇らせた少年が諦めの笑みを浮かべるより早く、男は言い募る。
「雪がやんだらなんて、言わせないぞ。すっかり元気になるまで、病人はよく寝てるべきだ」
「………、…え?」
ロイの答えが予想外だったのだろう。エドの目が呆気に取られて大きく見開かれる。それに小気味よく笑い、ロイは続けた。
「…そんな中途半端に投げ出すものか」
安心させるように目を和ませてから、ロイは、握った手に唇をつけた。子供をなだめるような仕草だったが、エドの目は水分を滲ませて揺れた。
しばし彼は言葉を失っていたが、十分すぎる沈黙の後、蚊の鳴くような声で「ありがとう」と呟いた。そして、ひとりごとのように、
「…雪、…やまなけりゃいいのに」
――と音もなく口にして目を閉じた。
そうだな、と答えたくなったロイだったが、言葉にしては何も言わず、ただその握った手を唇や額で慰撫していた。
その願いが通じたのかどうかはわからない。
ただ、事実を述べるなら、その日から三日間、雪は一度もやむことがなかった。
一日目はお互いの距離を狭めるのに使われた。
二日目は、寒さと戻らない体温を理由に、隣で眠った。
その間あった外界との接触といったら、食事を取りにいったのと、一度だけロイの勤め先から電話があったことくらい(彼の無茶な休みはつまり二日目以降も続けられた)。
そして三日目。
「………なぁ…」
とうとう腕の中に落ちてきた塊が、胸の辺りで構えのない声を出した。なんだい、と答えるように、ロイは手を動かして金髪を梳いた。絡んだように見えた金糸は、すぐにはらりと指の間をすり抜けて行った。
「……雪、…やまねえな…」
「…ああ…」
二人絡みあうベッドの中は暖かかった。
「…なあ。…聞いて欲しいこと、あるんだ…」
「…なんだい」
今度は声に出して、ロイは促した。すると…。
「…オレ、さ。…ロイも知ってた通りさ。…国家錬金術師、で…」
「…あぁ」
「…そんで、さ。…大総統と、…取引…っていうか、…してて、さ」
「………」
エドは顔を上げ、泣き笑いのような顔で笑った。
「………。…だから、…オレ、…もう、帰らなきゃ」
しかし言葉と裏腹、彼はぎゅっとロイの腹に抱きついてきた。ロイもまた、突き放したりせず、その小柄を強く抱き寄せる。
「…帰らなきゃ…いけねぇのに…」
「…どうして?」
なるべく穏やかに、ロイは問うたつもりだった。少年の負担にならぬように。だが…。
「…ロイに、…迷惑、かかるから」
ぽつりと答えたエドの声は、悲しげなものだった。責めてしまったような後味の悪さと、そして「迷惑がかかる」という言葉に言いようのない辛さを覚えた。
「私のことなら気にしなくていい」
「…気にするよ」
「エド、」
「気に、するよ…! オレ、…だって、…大総統と取引、したから…他の人と仲良く、したり、したら…、目、つけられて、…ひどいことになるんだ」
大総統は確かに独裁者ではあるが、エドの恐怖はそれとはまた少し違ったもののように思えた。
「…なあ、ありがと、な…」
「エド…」
ふわり、と少年はそこで笑った。
「…オレ、…こんなに誰かによくしてもらったの、…母さんが生きてた頃ぶりだ…」
「………」
ロイは物も言わず少年の頭をかき抱く。エドもそれに抗ったりしなかった。
そうして抱きしめあって。言葉はなくて。出会ってからほとんど時間も経っていなくて、知っていることはあまりに少なくて、けれど、今すぐそばにぬくもりを持っていて。
何かに背中を押されるように、せかされるように、流されるように、互いの背を支えていた手が自然に動いていた。見詰め合っていた瞳を先に閉じていたのはどちらだっただろう。引き寄せられるように唇が重なって、ロイの少し冷えた手がエドの肌に触れる。
三日目、雪はまだ降り続けていた。
四日目、どこかに予感はあったが、雪もやんで仕事もそろそろ休めなくなったロイが出勤し、帰ってくるとそこにはやはり少年はいなかった。
その後伝を使って手に入れた情報によれば、彼は数年前母を亡くして弟ともども父親の知り合いだという大総統にひそかに引き取られたとのことだった。だが弟の姿を見た者はなぜかひとりもいないのだという。
長らく続いた大総統の独裁に対する不満は、分散こそされていたが無視できぬほどに大きなものとなっていた。
それを組織としてまとめあげ、男がクーデターを起こしたのは、実にその雪の朝から二年後のことだった。
その日も雪が降っていた。
革命前夜のことだった。
まだ外からは興奮覚めやらぬ人々の声が上がっていた。怪我人の運搬や壊れた施設の補強や片付けで動いているものもいるし、単純に興奮から肩を組んで歌っている連中もいる。
ロイは口の端に微笑を刷いてカーテンを閉めた。シャツの下、包帯を巻いた肩がわずかに疼いたが顔をしかめるほどではなかった。
「……」
右肩と左目に重傷を負ったことで、あらかた片付いたからと一室に押し込められたのは先ほどのことだ。応急処置とはいえ軍医がいたからそれなりの処置はされている。右肩は銃撃にあったものだが、既に銃弾は摘出されていた。左目に関しては眼球の損傷が激しく、失明は確定だろうと宣告されていたが、脳には損傷が及んでいないとのことなのでもっけの幸いと安堵した。安堵している場合ではないと副官にはしかられたが。
既にクーデターから一日が経ち、再び時刻は夜となっていた。
かつての大総統府の一室、ロイは、ただぼんやりと長椅子に横になった。本当はベッドのある部屋へといわれていたのだが、それは他の怪我人に譲ってくれと差し出してある。
「…………」
私情に走るなど、と思わないでもなかったが、ここに踏み込んだ最初からあの少年を探していた。
だが、彼の姿はなかった。
大総統府を掌握し、当の大総統をさきほど自ら討ち果たした後でさえ、あの少年の姿だけは見当たらなかった。ひそかに探させているが、見つかるかどうかはわからなかった。
ため息をつき、ロイは目を閉じた。
鎮痛剤が効いてきていた。
どれくらい眠っていたのだろう。
ドアの外に立つ護衛とは違う気配を、ありえないことにごく身近に感じて目を開けた。
「………」
ぱっと見、誰がいるわけでもない。
だがロイは慌てず騒がず、身じろぎもせず、天井を見上げたまま静かに口を開いた。
「…エドか?」
部屋の中の誰かの気配が揺らいだ気がした。
なぜ、と問う気もなかった。外に人がいただろうとも。探ってみても、外に立つ護衛の気配はそのままだから、彼らをかわしてきたわけではないのだろう。どこかに隠し通路でもあるのか…。
ロイはゆっくりと身を起こした。薬が効いているのだろう、肩の痛みは感じなかった。
元は応接なのだろう。いずれ名のある職人の手になるはずの大きな置物の影から、二年前、別れた時と変わらない姿の少年がゆっくり進み出てきた。
「……やあ」