Ecarlate
―――印象深い出来事ではあったが、その後特に交流があったわけでもない。その上、その後に彼らは士官学校へ進み、軍人となり、内戦の地で人を多く手にかけたのだ。心の片隅にきれいな思い出のまま残されていた赤ん坊とその若い母親の悲劇を知った時、…優秀な錬金術師をスカウトに行ったはずの先で出会った子供が、あの時の赤ん坊だと知った時、…ロイは、激しい怒りを覚えた。何にかははっきりとしない。トリシャの夫にかもしれないし、子供達にかもしれないし、自分にかもしれなかった。しかも、最初はロイは、エドワードがあの時の赤ん坊だとは気付かなかったのだ。気付いたのは、もう少し後、彼の経歴をもう一度調べ直した後になってのことだった。
もしも、と思った。
あの時トリシャをリゼンブールへ返していなかったら。もしも自分が、あの後も折にふれあの母子を気にかけていたのなら。もしも、もしも―――…、
「…そんな、…そんなの、だって」
「…。私に出来たのは、…知らぬふりをして、…せいぜいいやな大人でいるくらいだろう?」
ロイはかみ締めるように言って、小さな頭をゆっくりと撫でた。
「…本当はどれだけ手出ししたかったか、おまえにわかるか。…あの時私を掴んだ手のことも、私の腕の中で大きな声で泣いていたのも、私は昨日のことのように思い出せるのに…」
本当はいつだって、もういい、と言ってしまいそうだった。
だが言えないこともわかっていたのだ。
だから、ずっと見守っていた。それしか出来なかったからだ。
「大佐…」
「…その上、…なんだ。エカルラートのことまで調べ始めて。…どうしておまえを私が信じないわけがある。…疑われて悲しいのは私の方だ」
恨み言の色を帯びたロイの言葉に、エドワードは目を閉じる。
…受け入れてしまえば、それは心に反発などもたらしはしなかった。自分はロイに、どうでもいいと思われているのだと思って悔しかった。それは裏を返せば、どうでもいいと思ってほしくなかったということだ。
どうでもいいなどと、このロイが思っているはずがなかった。それを疑うのはばかばかしいことだと感じられる。今、確実に。
エドワードは目を閉じて、大人しくロイの胸を掴んで頭を寄せる。
―――警報はいつしか止んでいた。
そろそろほとぼりも冷めただろう頃、ようやくロイは、エドワードを立たせて歩き始めた。静かになった隙に自分達も脱出しなければ、色々とまずいのだ。
…と。
「…そこにいる奴、誰だ?!」
静かになってはいたのだが、運が悪かったのか何なのか…、二人は見回りらしき兵士に見つかってしまった。人員が補充されているのかもしれなかった。
「…走るぞ!」
ロイはエドワードに声をかけ、松ことなく走りだした。しかしエドワードがそれを咎めることはなく、彼もまた駆け出す。そして二人は、またも追われることに。
しかし、今度は塀が近いので、さほど逃げ回らなくてもよさそうだった。…壁を打ち破る手段さえあれば、の話だが。
もしも追われていないのであれば、エドワードが扉でも錬成すればいいのだろう。しかし、手を合わせて錬成しているところが見られればそれはエドワードだと言っているようなものであろう。彼の錬成の方法は、その肩書きと共に有名なのだから。しかしロイが破壊しても、多分それは同じことである。
と…、彼は、ポケットから、エカルラートの象徴ともいえる、赤い手袋を出した。そして走りながらエドワードに投げる。慌てて受け取ったエドワードは、にっと笑ったロイの顔を見、意図を覚る。すぐに手袋をはめたロイに倣い、少年もまた手袋に指を通す。
「…鋼の!」
大きな声ではなかったが、しっかりと聞こえた。
見つめれば、力強く頷いて返してくれる。だからエドワードもまた頷き、ロイの仕種を思い出しながら、手を掲げた。
「…たいさっ…」
瞬間目を閉じ、そこに描かれているであろう錬成陣を思う。頭の中にイメージを浮かべて、そして…。
パチンッ…
―――ドン…!
腹に響く音がして、ふたつの爆発が壁を粉みじんに破壊し、ふたつの人影は煙の中を外へと逃げ出していったのであった。
―――「怪人」エカルラートは見事マチルダ・ローズを救い出し、そして、そのまま逃げおおせた。
翌日の新聞は、そのニュースで持ちきりだった。
ちなみにそれを見ながら、鋼の錬金術師のしっかり物の弟は、意味ありげに「兄さん、エカルラートは捕まらなかったんだって」と言った。彼は、兄が昨夜何処かへ行き、深夜まで戻ってこなかったことを知っている。彼がローズ元伍長が収監されていた留置所の場所を調べていたことも。
だが兄は、へえ、と気のない返事をしながら、目をそらしていた。
ちなみに、エドワードは知らないが、留置所を逃げ出す時の「鋼の」「大佐」という呼びかけを耳にした兵士がひとり、ふたり程おり、爆破の前に起こった事柄を含め、マスタング大佐は中央に召還されていたりしたのだが、エドワードはそんなことは知らない。
なので、当然、呼ばれた先で詰問されながらのらりくらりとロイが口にした、「記憶にございません」という言葉もまた、知らないままだった。
彼が知っているのは、ロイが、エドワードのことを本当はひどく心にかけているということ、それだけだ。
エカルラートの正体も、エカルラートが現れた理由も、彼には関係のないこと。
ヒューズ中佐がそう言ったように、それこそがあるべき姿なのだった。
お偉方の前から帰ってきた親友の肩を叩きながら、ヒューズはお疲れさん、と言って笑った。
「…ああ。さすがに、疲れたな」
「よっく言うぜ。なんだおまえ、『記憶にございません』?俺も今度使わせてもらうわ」
「は。使用料を取るぞ」
「心の狭いこと言うなよ〜」
ヒューズは豪快に笑いながら、それとなく人気のない方へと歩いていく。そしてごく自然な動作で空いた会議室に入ると、途端に眉をしかめた。
「…おい。ロイよ」
「…なんだ」
「おまえ、あの豆っ子甘やかすのも大概にしろよな…」
「私のどこが甘やかしてるんだ」
ロイは、澄ました顔で答えた。どこがも何も、多分何もかも甘やかしている自覚はないでもない。
「今回こんだけ大騒ぎになったのはな、よく聞けよ。おまえんとこのあのチビが、新聞社回りしてくれたおかげなんだよ」
ロイはとりあえず黙り込んだ。
「…内密に、しかし詳細に調べたいなんて思わせぶりなこと言いまくって。だもんだからブン屋どもがかえって勘ぐってローズのお嬢ちゃんの件とくっついちまって。とんでもない騒ぎになったんだろうが…」
―――アルフォンスがあれほど疑問に思っていた、「なぜ今エカルラートなのか?」という問題は、実は、…エドワードに原因があった。つまり、ロイとヒューズの会話をエドワードが聞いた時点では、実は、そんな噂はなかったのである。
ところがエドワードが思わせぶりに、しかし内密に調査を始めたものだから、どうやら軍はエカルラートを警戒しているらしい…と一気に噂になってしまった。そのことで事態はややこしくなってしまったのである。
「…元をただせば、おまえがアレの話を持ちかけてきたのが悪いんじゃないのか」