PUZZLE2
ひょこひょこと自分とは逆方向に去っていく悪魔に、芥辺は声をかけた。
「悪魔にも友情があるとはな」
「なんのことです?」
アザゼルは足を止めた。
「俺には、馬鹿げたことをしているとしか思えん。人と悪魔がうまくいくわけがない。時間と感情の無駄遣いだ」
「うまくいくかどうか、無駄遣いかどうか、それを決めるんは、芥辺はんじゃないやろ。さく、やん」
「……………。」
目だけで振り返った悪魔を、芥辺はじっと見下ろした。
「――友情じゃないねん。ワシも、夢を見たいっちゅーか……。」
その後の言葉は最初から存在しないのか、それとも隠してしまったのか。黙りこくるアザゼルのもとへ、芥辺は歩み寄ると、手にした本を振り下ろした。
「!」
ぼこんとそれに殴られて、次にくる衝撃を――グリモアがもたらす災厄を待ち構える。が、何も起こらない。
「……?」
芥辺が持っていたのは、普段彼が勤しんでいる読書用の、本当にただの書籍だったようだ。
アザゼルは叩かれた頭をきょとんとした顔で押さえた。芥辺はふっと笑うと、何も言わず、自室へ向かって歩き出した。
世が暗闇に染まる頃、りん子とベルゼブブは連れ立って芥辺探偵事務所を出た。
りん子の住まいは、事務所から歩いて二十分ほどの住宅街にある、アパートの一室だ。
十八時。仕事や学業を終えた人々が点在する道を歩く。
今のところ、りん子に不埒な真似をしているという奴の、邪な視線は感じない。
現在は人型のベルゼブブは、背が高く細身、金髪に青い瞳で、その整った顔だちに注がれる視線は多い。だが彼は、悪意のあるものとそうでないものを敏感に区別できる。
隙なく周囲に目を配る隣人の顔を、りん子はそっと覗いた。
カットソーにデニムのクロップドパンツ、下はサンダル履きというラフな格好は、自分の要望に応えて、化けてもらったものだ。ベルゼブブが普段好むフォーマルなスタイルだと目立ってしまうし、共に行動するなら、学生の自分と同じような格好のほうが違和感がなくていいと。
最初はどんなことになるかと心配したが、彼は普通にそれらの衣装を着こなしている。
結論、美形は何を着ても、似合う――ということか。
――かっこいいなんて、思ったことはなかったんだけど。
知り合いなどが彼を見て、「王子様」と評したことがある。
だが、りん子自身はその感想にぴんとこなかった。理由は、彼の外見が好みでないから。
じゃあ、自分の理想はどんなものかと問われると……?
答えられない。
つまりりん子は、あまり男性に興味が持てないのだ。
それなのに、どうだろう。
今自分の横にいる彼を、とても素敵だと、思いたくないのに思ってしまう。
いやいや、この悪魔は鬼畜ドSで糞尿好きで……と、必死に言い聞かせなければいけないほど、浮かれている自分に気付き、わけもなく走り出したくなる。
なんなんだ、これは。
バカみたい、泣き出したい、笑いたい、怖い。それらの気持ちが凝縮された、たったひとつの感情に、ついていけない。
――つまり、私は。
「どうしました?」
話しかけられて、はっと我に返った。
「べ、別に」
強がって答えた態度は少し無礼だったろうか。カチンときたらしいベルゼブブが、苛立った声で責め立てる。
「あなたねえ、分かってるんですか?私は、あなたのために働いてるんですよ」
「わ、分かってますよ……。」
「いーえ、分かってませんね!ぼへーっとしやがって!そんなんだから、悪魔にも変態にも漬け込まれるんですよ。この間も……。」
「あーあーあーあー。わーかーりーまーしーたー。全部私がわーるーいーでーす!」
「てっめえ、なんだその口の利き方はよォォ!」
大人気なく口論する二人を、道行く人がちらちらと覗いていくが、頭に血が昇っている彼女たちは気付かなかった。そんなことをしているうちに、住宅街へ差し掛かる。
ひとしきり意見を戦わせて、というよりは単に罵り合ったのち、二人はぜいぜいと息を切らした。ふと、りん子がつぶやく。
「私、慣れてるんですよ。今回みたいなこと……。だから、いいって言ったんです。小さい頃から、色々……ありましたから」
「…………。」
「なんかあるんじゃないですかね、私。変な人を引きつけちゃうっていうか、運が悪いっていうか、そういう……。半分あきらめてます」
最後は冗談めかして語る彼女の頭を、ベルゼブブはぽんと軽く叩いた。
「バカですね。あなたがたが築いた法で、理性を欠いた行為は処罰の対象になっているのでしょう?だとしたら、変な犠牲精神を発揮する前に、変質者を責めるべきだ」
「…………。」
「あきらめるとか、私の契約者ともあろう者が、そのようなプライドのない考え方をするのは許しません」
「……はい」
反省したのか、りん子は神妙に頷く。
ベルゼブブの言うとおりだ。襲われる側が我慢すればいいという考え方は間違っている。
「ところで……。小さい頃にされたというのは……。いえ、言いたくないなら結構ですが」
「ああ。露出狂っていうんですかね?自分の、その、アレを、見せてくるおじさんがいまして……。」
思い出すだけで気分が悪い。しかめっ面になるりん子の横で、ベルゼブブもまた眉を吊り上げる。
「そんな下種な男、私がいたなら、二度と悪さができないよう切り落としてやったのに……。」
「それはちょっと、後味が悪いですね」
尚もお人好しなことをほざきつつ、当時を思い出すその顔が緩んだ。
「助けてくれた人は、ちゃんといたんです。ベルゼブブさんにお願いして、命を救ってもらったあの人……小山くんっていうんですけど」
「…………。」
明け方の病院で死にかけていた、あの青年のことか。
りん子は楽しそうにくすくす笑っている。
あの青年は、幼い少女にとってヒーローだったのだろう。そして、今も彼女の心を離さない――。
「!」
殺気に似た気配を感じて、ベルゼブブはりん子を背に庇った。
薄暗闇の住宅街は、すっかり人気が途絶えている。
「そこの男!出て来なさい!」
ついさっき通ってきた曲がり角、その塀の脇から、太った男がふらふらと姿を現した。
年の頃は中年に見えるが、単に老けているだけかもしれない。着古したTシャツにジーンズという格好で、髪はボサボサだ。
「お前……誰なんだよう……。」
第一声がそれだった。ベルゼブブは男を睨み付ける。
「人に名を尋ねるならば、まず自分から名乗りなさい。あなたにその勇気があるなら」
「…………。」
男はそわそわと落ち着かない様子で、やはり自分の名は名乗らない。
「イチゴちゃん……僕のイチゴちゃんに、手を出すなあ……!」
「!」
りん子の顔は青ざめ、ベルゼブブはため息を吐いた。
苺の戦士、野々宮 イチゴは家族思いの小学四年生……。
実在する人物ではなく、とあるアニメの主人公の話である。
りん子には、この少女のコスプレをして、イベントに出たという黒歴史がある。
今彼女をつけ回している男には、そのときに見染められたのだろう。
「まったく……。あなたのあのくだらない遊びのせいで、こんな下劣な男を引き寄せたんですよ。自戒なさい」
「は、い……。」
眠たげな瞳を陰険に光らせ、悪魔は男と対峙した。