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水底にて君を想う 水底【3】

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 足音はもうそこまで来ている。
 賢木は掴んでいる手を半ば蹴るようにして振り払うと、痛みを忘れたかのように走り出した。
 口の中で悪い、と呟いて。


 紫穂は病院の壁に手を付けていた。
 賢木と思われる男性が、警察官の制止を振り切り逃げていったとの連絡に薫と共に急行していた。
 壁には血がベッタリ、と付いている。
 賢木はそこに、情報を書き込んでいった。
 サイコメトラーなら、紫穂なら読み取れる情報を。
「センセイ……」
 搾り出すような声。
 最後に刻まれた言葉が胸を締め付ける。
「紫穂」
 薫がその肩に触れる。
「大丈夫、大丈夫よ薫ちゃん」
 紫穂は薫の手をしっかりと握り込む。
「急ぎましょ。センセイが大変なことになってるから」
「分かった。あたし達で助けるよ、絶対」
 薫の言葉に紫穂は小さく、しかし力強く頷く。
(センセイ、私は従わないわ。『俺を追うな』なんて)
 紫穂はもう一度、血に触れた。


 今は何時で、ここが何処なのか。
 賢木には既にその判別ができなくなっていた。
 押し寄せる情報と、明滅するように現れる未来の映像がその判断能力を失わせていく。
 どこに向かっているのかも分からないまま、足を前に前にと進めている。
 何かにぶつかる。
「おい、気を付けろ!」
 荒々しい怒声とともに太い腕が賢木の胸倉を掴む。
「……っ」
 どうやら、男の肩にでも当たったようだ。
 通り過ぎていく人々は係わり合いを避けるように、足早に通り過ぎていく。
「どうしたよ」
 柄の悪さを前面に出したような小柄な男が、顔を覗かせる。
「こいつがよー」
 男は賢木の胸倉をさらに引き上げる。
 賢木は力無くそれに従う。
 後から来た男は嫌らしい笑みを浮かべると、近くの路地を顎で指す。
 男は賢木をその路地へと引き摺っていく。
(……カンベンしてくれ……ねえか)
 震える手をその男の手に添える。
 彼らから伝わってくる悪意も、他のものに混ざってしまってぼやけていく。
(ここで……死ぬわけにゃあいかねえんだ)
 まだ、人が多すぎる。
 それにバベルの仲間達が自分を探しているのに違いない。
 とにかく、独りにならなくては。
「……わ……るい」
「ああ?何いってんだぁ?」
 賢木の言葉に男はバカにしたような表情を浮かべる。
「気持わりぃ奴だな、とっとと貰うもんもらって、締めようぜ」
「そうっすね」
 男が賢木を壁に押し付ける。
 賢木は目をつぶる。
 殺したくない、そう思いながらも指先に力を集中させていく。
「君が殺ることはないさ」
 氷よりも冷たい声と共に、男達の耳障りな悲鳴が上がる。
 代わりに賢木の体が自由になる。
 そのまま倒れそうになるのを、細い腕が支える。
 賢木は大きく息を吐き出す。
 助かったと、心の底から思っていた。
「ひょ…ぶ……た…の…」
 息が切れて言葉が繋がらない。
 兵部は目を細める。
 まるで痛みに耐えているようだ。
「分かっているから。声にしなくていい」
 まるで子供をあやすように言うと、兵部は賢木を抱える。
 賢木はもう一度息を吐き出す。
 兵部は賢木を連れ、その場から消え失せる。
 後には捩れた腕に悲鳴を上げる男と、壁にめり込んで呻く男だけが残された。


 風が吹き抜けていく。
 建設途中のビル郡。
 その一角に兵部は足をつけた。
「政権交代の煽りを喰らってね。ここは今、資金難で建設が止まっているんだ」
 いいながら、剥き出しのコンクリートの床に賢木を下ろす。
「都心からそう離れているわけでもないけど、君の精神は既に周りに影響を及ぼし始めてる。いかに僕でもそう遠くまで跳べなくてさ」
 兵部は頭が痛んだのか、額を押さえる。
「まあ、ここなら被害は最小限で済むだろ」
「ああ……礼を言う…ぜ」
 賢木は鉄骨に背を預け、座り込む。
 人がいないせいか、僅かに頭の痛みが引いている。
「こいつは、好きじゃないんだが、今の君にPKが届くか疑わしいからね」
 兵部は懐から銃を取り出す。
 弾を確認すると、銃口を賢木に向ける。
 賢木は目を閉じた。
 皆本の笑顔が浮かぶ。
 もうずいぶん昔のことのようだ。
「痛みはほんの一瞬だよ」
 囁くようにそう呟いて、兵部の指がトリガーにかかる。
 精神崩壊の前なら、被害は自分だけですむ。
 賢木は微かに頬を緩める。
 銃声が響いた。

 ほんの少しの間の後、賢木はぼんやりと目を開けた。
 弾は賢木には届かなかった。
「まったく……君達は」
 兵部は苦笑する。
 賢木の霞む視界に薫達三人が映る。
「京介、なんで!?」
 薫が叫ぶ。
 彼女の力が、弾を空中に固定している。
「なんでも何も、こうする以外にないからさ。それは君も分かっているだろう『禁断の女帝』?」
 紫穂は何も言わずに、兵部を睨み付ける。
「何、言うてるん!?先生は、先生はうちらが……」
 言いかけて、葵は触れている紫穂の腕が小刻みに震えていることに気が付いた。
「もう手遅れなのさ。どうやっても助けることは出来ない。なら、少しでも楽にしてやるのが人情ってもんだろう?」
 兵部の指が弾に軽く触れる。と、それは糸が切れたように床で乾いた音を立てた。
 薫の眉間に深い皺が刻まれている。
「超度七の君でさえ、彼の漏れ始めている精神波に意識を集中することも出来ない。……それを受けにくいはずの僕でも、ここにいるのがやっと。崩壊が起これば、どうなるか」
 だから、そう言いながら兵部は再び銃を構える。
「……邪魔するんじゃないよ、坊や」
 視線の先に皆本がいた。
 階段を駆け上ってきたのか、肩で息をし、スーツも乱れている。
 その手はブラスターを構え、銃口は兵部に向けられている。
「銃を下ろせ、兵部!」
「相変わらずだな、君は。状況は理解できてるんだろ?なら、彼女達を連れてこの場を去るんだ」
 兵部はトリガーに指を掛ける。
「…………と……」
 僅かに賢木の唇が動いた。
「ぐぅっ!」
 兵部がよろめきながら頭を抑える。
 銃が金属音を上げながら、鉄骨の隙間から下へと落ちていく。
 薫が小さく悲鳴を上げて、床に座り込む。
 葵も両耳を押さえるようにして、しゃがみ込む。
 紫穂だけが辛うじて立っていたが、その顔色がみるみる青くなっていく。
「賢木!」
 皆本は賢木の元に駆けつける。
「僕だ、分かるか賢木!?」
 焦点の合っていない賢木の目が皆本に向けられる。
(ひどい……これが賢木なのか?)
 殴打され変形した顔、やつれた頬、そして何よりも光を失った瞳。
 皆本は薫達の方に視線を向ける。
(精神波の影響を受けているのか……だとすれば、もう時間がない)
 予知の時間まであと八分。
「み……なも…と」
「賢木」
 震える手が、皆本の方へ差し伸ばされる。
 皆本はその手をしっかりと握り締める。
 賢木の体が一瞬、震えた。
「聞いてくれ賢木。まず、脳の活動を限界まで下げ……」
 皆本の言葉に賢木は弱々しく首を振る。
 何時の間にか目の焦点が、皆本に合っている。
「無理……だ……」
「何を言ってるんだ。お前ならやれるだろう!?」
「も、無理なんだ……」
 賢木の口元が緩く弧を描く。
 皆本は息を飲んだ。