【かいねこ】海鳴り
翌日は何事もなく時が流れ、夕暮れが空を染めていく。
本を読むいろは様の後ろに控えていたら、遠雷の様な音が響いた。
「あれは海鳴りだ」
顔を上げた俺に、いろは様が本を読みながら淡々と告げる。
「沖が荒れているのだ。雨が降るかもな」
彼女が自分から話しかけてきたことに驚き、うっかり、
「海をご覧になったことがありますか?」
と聞いてしまった。
「ある訳がないだろう」
当然の返答に、悪いことを聞いてしまったと悔やみながら、
「海を見たいとは、思いませぬか?」
「叶わぬことを願っても、意味がないからな」
叶わぬこと・・・・・・なのだろうか。
この娘に海を見せてやりたいと、強く思った。
海だけではない。広い世界を、共に見て回りたいと。
二日経ち、いろは様から再び龍神子様への文を持たされる。
ただ渡すだけでいいと言われるが、続いて、日が落ちるまでは帰ってくるなと念を押された。
沈んだ気持ちで門を出ると、脇から突然腕を捕まれる。
「何奴!」
「落ち着け。伏木だ。お前に聞きたいことがある」
驚いて顔を見れば、すっかりやつれて面代わりした伏木様だった。
「伏木様・・・・・・如何なされました」
「いろははどうしている?元気か?何か足りないものはないか?」
「お変わりなく過ごされております。ご心配ですか?」
俺が聞き返すと、伏木様は顔を逸らし、
「・・・・・・人手に渡った人形だ。どうなろうと、俺には関係ない。どうせ、一月もない命だ」
だが、その声は弱々しく、問うまでもなく本心ではないことが分かる。
伏木様は、懐から守り袋を取り出すと、
「いろはに渡してくれ。無事、役目を全うできるようにと」
「・・・・・・分かりました」
それが何を意味するか、お互い痛いほど分かっていた。
伏木様は「呼び止めて悪かった」と言い残し、足早に去っていく。
・・・・・・他に、道はなかったのだろうか。