吾輩は猫である
6
翌日――。
日野は学院に行くと、当たり前のように、俺を森の広場に連れてきた。
昨晩、睡魔が訪れるのを待ちながら、俺は肢の怪我が治るまでの間、日野家の愛玩動物として、室内に閉じこめられることを覚悟した。
しかし、彼女はあくまで「保護」に徹するつもりらしい。
野良猫の自尊心を奪わない配慮に心から感謝し、晴れて元の姿に戻った暁には、カフェテリアでホットココアをご馳走してやろうと俺は心に決めた。
ココアを選んだことに深い意味はないのだが、ココアを飲む彼女はきまって嬉しそうな顔をするので、おそらく好物なのだと思う。
始業時間が近いせいもあってか、森の広場に他の生徒の姿は見えない。
俺は朝露でほんのりと湿った芝生に、四肢をついて身体を伸ばした。
「みゃお……」
数十分ぶりに味わう、動かない地面の感触に、安堵の溜め息を漏らす。
――まあ、端から見れば、ただの猫の鳴き声にしか聞こえないわけだが……。
「……ヒロさん、大丈夫?」
心配そうな目で、真正面にしゃがみ込んだ日野が、俺の頭に手を置いて言った。
気分が悪いわけではない。だが、おかしな浮遊感がまだ全身に漂っている。
「もしかして、酔っちゃった……?」
心配する彼女に「そんなことはないぞー」と伝えてやりたかったが、昨日の経験から、下げた頭は絶対に上げない。未知との邂逅は一度で充分だ。
おとなしく頭を撫で回されながら、家を出る前、新しい包帯に替えられた前肢を、じっと見つめる。
日野の自宅からここまで、俺は彼女の背中に揺られて登校した。
家庭科の実習で作ったと思わしき、お手製のナップザックに詰められての登校は、実に貴重な体験であったと言わざるを得ない。
苦しくないようにと、首から上と両の前肢をザックの口から出した俺の姿を、登校中の生徒が見る度に、振り返って「可愛い〜!」を連呼する。
三十路を越えたオッサンに、これ程「可愛い」を浴びさせられる日が来るとは、誰が予測できようか。もう、一生分の「可愛い〜!」を喰らった気分だ。
それにしても、星奏学院の校則における「持ち込み禁止物」に「猫」が含まれていなかったのは幸いだった……一般常識で考えて、そんなモノを持ち込む輩がいるとは思えないので、記述しないのは、当然っちゃ当然か。
まあ、そんなこんなで、何とも微妙な日野との同伴登校を果たし、今の俺の根城であり、始まりの場所である、森の広場へと戻って来たわけだ。
始業の予鈴が、澄んだ朝の空気を震わせる。
「いけない! もう行かなくちゃ!」
血相を変えて、日野が立ち上がった。
「……じゃあね、ヒロさん。私は授業に行ってくるから、この辺りで大人しくしているんだよ」
「にゃぁ」
(あいよ……)
「昼休みになったら、ご飯を持って来るからね」
「うみゃぁ……」
(あー分かったよ)
はぁ……。
あの味のないツナ缶が、俺を待っているのか……。
鯖でも鰹でも結果はさして変わらんだろう。せめて醤油をかけてくれれば、違うんだが。
「変な人についていっちゃダメだよ」
「みゃぁ、みゃぉぉぉ」
(いいから急げ! 遅刻だぞ!)
俺は前肢をちょこんと行儀良く揃えて、日野を見送った。尻尾も軽く振ってみせる。
日野は心配そうにこちらを何度も振り返りながら、森の広場を去っていった。
――静かな静かな森の広場。
久し振りに一人(一匹?)きりの時間が訪れた。
「にゃー」
(さてと……)
俺はひとりごちに呟いたが、それは当然、猫の鳴き声に変換される。
動物の本能に流されるまま、穏やかな陽射しで暖まり始めた日溜まりに寝転がりそうになるのを堪えて、四肢をぴんと伸ばした。まあ、人間でいうところの「背筋を伸ばす」だと思ってくれ。
やるべきことは、色々とある……。
吉羅のヤツはこの時間だと、まだ学院には来ていないかもしれない。いや、それ以前に今日は学院に顔を出すのだろうか? 何かにつけて忙しい男だ。
携帯電話に連絡して捕まえようにも、声……は何とかなるかもしれないが、この肢ではメール同様、ボタン操作は無理だ。
そもそも俺の携帯電話は、白衣のポケットに入れたままだから、恐らく吉羅の元にあるだろう。
こういうときは、不確かなことよりも、より確実なことをするべきで――つまりは、昨日隠した服の確認だ。
俺は周囲を軽く見回して、人気がないことを確かめてから、ひょうたん池の橋(昨日の事件は思い出したくない)を渡り、さらに広場の奥へと進む。
(ん……?)
目的地――服を隠した茂みのことである……の少し手前の芝生の上に、蜂蜜色の髪が広がっていることに気付いた。誰かが寝ているようだ。
(志水……?)
芝生に仰向けになって、気持ち良さそうに眠っているのは志水桂一だった。子猫のケイイチじゃないぞ。
俺は特に足音を忍ばせることもなく、彼に近寄ってみるが、目覚める気配は一向にない。
――ホント、こいつの寝顔は、天使みだいだ。
すぐ傍には通学用のリュックとチェロケースも置かれている。おそらく登校してから教室に行かず、ずっとここで寝ていたのだろう。
だが、始業のチャイムは、さっき鳴ったよなぁ……。
このまま寝かせておいてやりたいのが親心(?)ってやつなんだが、見た目は猫でも中身は一応、教師なんだ。すなんな、志水……。
「にゃぁ、みゃぁ」
(おーい、起きろ)
爪を引っ込めた前肢で、ふにふにと頬を押してみる。
それはつきたての餅みたいに弾力があって、ちょっと楽しい。
ふにふに、ふにふに……。
「う……ん……?」
微かな吐息が吐き出され、長い睫毛が揺れる。俺の目の前で、ぱちりとまぶたが開いた。
「…………」
定まらない視線を俺に向けて、小首を傾げる。
まるで絵画に描かれた美少年だ。女子生徒の密かな人気の的になっているのも、思わず納得できる。
「あ……猫さん、おはようございます」
志水は寝ぼけ眼を手で擦り、俺の姿を見てぺこりと頭を下げた。
本当にマイペースなヤツだ。
「にゃぁ、うにゃぁ!」
(いいから早く授業に行け!)
「あっ……授業、始まってしまいました……」
志水は腕時計を見てゆっくりと呟くと、リュックとチェロのケースを担いだ。
「……それでは猫さん……失礼します」
俺に向かってもう一度頭を下げると、相変わらずのふわふわとした足取りで、教室へ向かう。
寝ぼけて、池に落ちなければ良いんだが……。
やれやれ……猫になってまで、何で真面目に仕事してるかねぇ、俺。
いつまでもこうしてはいられない。
気を取り直して、再び広場の奥へと進む。
(確かこの辺だったはずなんだが……)
場所を固定して昼寝をしていると、何かにつけて面倒事を押し付けたがる連中に補足されやすいので、俺はその日の気分で場所を変えていた。それが、こんなかたちで仇になろうとは……。
それらしき植え込みを、ひとつずつ確認して回る。
かつり。
鼻先が、何か硬いモノに当たった。
本能的に匂いを嗅いでしまう。ツンとした油脂の匂いが鼻孔を直撃して、俺は低く呻いた。
黒っぽいそれは、男物の革靴だった。