吾輩は猫である
7
フルートの優雅な調べが、森の広場に響き渡る。
柚木梓馬オンステージ・イン・森の広場。
観客は俺、ひと――いや、俺、一匹。
俺というちっぽけな観客の存在を意識しているのか、いないのか……。
柚木は得意な曲を伸び伸びと演奏していた。
(ふん……『アダージョ』……か)
柚木の演奏技術、表現力は、高校生としてみた場合飛び抜けたものがある。いわゆる「天才」にカテゴライズされる人種なのだろう。
しかも、こいつのすごいところは、その天賦の才に奢らず、決して努力を怠らない。彼の辞書に「手抜き」という単語は存在しないのだろう。
そういった意味では、手の掛からない生徒だった。
時折、俺の方をちらりと見ては、不敵な笑みを浮かべる。
音楽教師という立場上、彼の演奏を聴く機会の多い俺にとって、この強制リサイタルは、別段有り難がるようなものではなかった。
本音を言えば、今、すぐにでもこの場を離れたい。
我慢して、おとなしく聴いているフリをしているのは、単にヤツの足止めをしているからにすぎなかった。
この先の茂みには、俺が着ていた服一式を隠している。
目聡い彼のことだ。一目現場を見れば、直ぐに気付いてしまうだろう。
これ以上の面倒事は勘弁して欲しい。
美しい旋律が、余韻を残しながら広場の空気に溶け込んだ。
「…………」
柚木はフルートの歌口から唇を離すと、じっと俺を見つめる。
何だ? 猫に拍手をせがんでいるのか?
「ふみゃぁぁ……」
俺はこれみよがしにデカい欠伸をしてやった。なんせ、ケモノだからな。
「……ふん、やはり猫が相手じゃ、張り合いがないな」
さすがの柚木もこれにはむっとしたようだ。
平静を装っているが、眉間にはしっかり皺が寄っている……とてもじゃないが、親衛隊の女子連中には見せられない顔だな。
さあ、愛想を尽かして、とっとと向こうに行ってくれ。お前にはもっとふさわしい場所があるはずだ。
「それにしてもお前……」
楽器を片付けて、いざ退散……かと思いきや、柚木は俺の元につかつかと歩み寄ってきた。
薄い唇の端が僅かに吊り上げる。
「に、にゃぁ……」
嫌な空気を感じて、背中の毛がぞわぞわと逆立った。
こいつ、妙に勘の鋭いところがあるんだよな。
学内音楽コンクールのときだってそうだ。日野が魔法のヴァイオリンを使っていることに気付いたのは、俺と柚木だけだった。
「俺の気のせいか……? お前、誰かに似ている気がするんだよな……」
しゃがみ込んで、真正面からじっと俺の顔を見る。
――いやいや、分かるはずはない。
今の俺は何処から見ても、正真正銘、ただの野良猫だ。
「……フッ、おかしなものだ。この俺が猫に話し掛けるなんてな。これじゃまるで金澤先生……」
柚木はそう言い掛けて、自分の吐き出した言葉にはっとする。彫刻のように端正な顔が強張る瞬間を、俺は見逃さなかった。
ま・ず・い。
俺、激しくピーンチ――!
「み、みゃお?」
わざとらしく鳴いてみせる。尻尾ふりふりのおまけつきで。
――猫だ。猫なんだよ、俺は。
「……フッ、まさかな。そんなわけないか。妖精だの魔法だのと、俺も随分とこの学院のおかしなものにほだされたみたいだ。くだらない」
独りごちに呟いて、柚木は長い前髪をさらりとかき上げる。立ち上がって、楽器ケースの底に付いた芝生を丁寧に払い落とした。
ひとしきり演奏したせいで、気が晴れたのだろう。少しだけ、爽やかな顔をしている。
相変わらず晴れないのは俺の心だが、とりあえずの窮地は脱したようだ。
「そろそろ時間だな……」
柚木は制服の内ポケットから懐中時計を取り出して、盤面を一瞥する。
「……まあ、それなりに気晴らしになったよ、じゃあな、ヒロ」
にやりと笑って、今度こそ踵を返した。
(やれやれ……)
柚木の立ち去る気配が完全に消えるのを待ってから、俺は深い溜め息をついた。
気を取り直すと、服の隠し場所へと向かうべく、前肢を繰り出した。
「みゃっ?」
鼻先に金色の光が集まり始める。
この光は、もしや……。
集まった光の中心から、羽根を持った妖精がぽんと飛び出す。
「にゃっ――!」
(お前は――!)
「金澤紘人、久し振りなのだー!」
この羽根付きの名前は、アルジェント・リリ。
俺がこいつの姿を自分の目で見たのは実に……十、十六年振りであった。
―以下、人外同士の会話につき、通常括弧表記―
「アルジェント・リリ……」
驚く俺を前に、羽根妖精は偉そうに腕を組んで、宙をふわふわと漂っていた。
「ははーん、さてはお前、吾輩が見えることに驚いておるな? ファータが使う姿消しの魔法は人間にしか効かない。今のお前は猫だから、吾輩たちの姿が見えるのだ!」
その姿は、現役時代の記憶と寸分変わりがない。ファータは老化しないのだろうか。
「ふん、変わらないな。相変わらず小生意気な口をききやがる」
「そういうお前は、随分とくたびれたのだ」
「やかましい! 脳天気な妖精と違って、人間様は歳を取るもんだ」
――じゃなくて。
俺が言いたいのはこんなことじゃない。
「てめー! 良くも俺をこんな目に遭わせたなっ!」
勢いよく飛びかかろうとすると、妖精は羽根をばたつかせて上空に逃げた。
……くそっ、すばしっこいヤツだ。
「元はと言えば、金澤紘人が望んだことなのだ」
「は? いつ俺がそんなことを言った?」
「確かにお前は言ったのだ! 昨日、森の広場で居眠りしながら『あ〜ダリぃ。猫になりたい』って言っていたのを、我輩は聞いたのだ」
「…………」
言われてみれば、増えるばかりの雑用にうんざりして、そんな愚痴を吐いていたかもしれない。
……だが、それとこれとは、話が別だ。
「吾輩はそれを叶えただけだ。礼を言われるならともかく、恨まれる筋合いはないのだ!」
「そりゃ、お前、言葉のアヤだ。誰が本気で猫になりたいなんて望むか! いいから、解け、今すぐこのふざけた魔法を解け!」
「それは無理なのだ。吉羅暁彦から言付けが行ったはずなのだ」
なるほど……昨日の吉羅も、こいつの差し金で見に来たようなことを言っていたっけ。
「無理……?」
見上げると、いつも脳天気なはずの妖精が、珍しく口をへの字に曲げていた。
「おい、無理とは、どういう意味だ?」
「うむ。今回の魔法は効果テキメンで、なんと、吾輩にも解けないのだ。手前に行っていた実験の影響で、魔力がゾウフクされてしまったらしい」
胸を張って言うようなことか。
「……なに、吾輩の魔法は消えゆく魔法だから、一週間も待てば自然に解けるのだ。社会的な問題は、吉羅暁彦が何とかしてくれる。お前は休暇だと思って、気ままな猫ライフを楽しめば良いのだ」
術者も解除できない魔法なんて、まるで呪いだ。
「ふざけるな! お前のせいで、俺は日野に拾われて、怪我をして……そんでもって、猫缶を食う羽目になったんだぞ!」
「そのお陰で、日野香穂子に甘えられるなら本望だろうが?」
「なっ……」
思わずたじろいだ俺に、にやにやと卑しい笑みを浮かべる。