吾輩は猫である
10
俺の意思とは無関係に降って湧いた、自由気ままな猫ライフを営み始めて、ちょうど一週間が経った。
不幸な事故により、ざっくりと切れた前肢の傷口はすっかり塞がり、多少むず痒さが残るものの、日常生活には何の支障もなかった。
むしろ支障があるのは、一時的とはいえ、日野の飼い猫になっているというこの境遇だ!
ほぼ完治している前肢には、未だに包帯が巻かれているのだが、これはうっかり傷口を舐めないようにという、日野の配慮である。
裂けた部分が非常に残念なことになっているので、見えない方が、俺としても有り難い。男って生き物は、血と傷口は苦手と相場が決まっているもんだ。
――それにしても怪我をしたのが前肢だったのは、不幸中の幸いだ。これがもし、後肢や脇腹だったらと思うと……あのみっともないエリザベスカラーだけは、死んでもゴメンだ。
「……じゃあね、ヒロさん。今日もいい子にしてるんだよ」
日野は森の広場の中程――陽の良く当たる柔らかな芝生の上……に俺を下ろした。
もうすっかりここが俺の定位置となっており、昼休みと放課後になると、一目散に駆け付けるのが、彼女の日課となっている。
「にゃぁ……」
(あいよ……)
うっかり下げた頭を優しく撫でられる。
顔を見ずとも、彼女が穏やかな微笑みを浮かべていることは、予想に難くない。
ヴァイオリンを弾くときと、俺の頭を撫でるとき、決まって彼女は同じ表情を浮かべていた――俺の好きな、あの微笑みを……。
「あっ、予鈴……」
木立の間をすり抜けて届いたチャイムの音に、日野は慌てて立ち上がると、ヴァイオリンケースに付いた芝生を払い落として、抱え直す。
「みゃお!」
(早く行け!)
「ごめんね、ヒロさん。また、お昼に戻るからね……」
途中、何度か立ち止まって、名残惜しそうに俺を振り返りながら、日野は校舎の方向に去って行った。
少し遅れて、これが「ヒロ」として会うのは最後になるのかもしれないと気付き、次第に小さくなっていく彼女の姿を、尻尾を揺らして見送る。
そうだ――リリの言葉を信じるのであれば、今日でこのおかしな魔法が解けるはずだ。
厳密に百六十八時間きっちりで解けるとは思えないから、いつ魔法が解けても構わないよう、準備をしておく必要があった。
今の俺にとっての最優先事項――それは「服」である。
着る服を確保しておかないと、人間の姿に戻ったときに素っ裸では、大変な騒ぎになるのは火を見るよりも明らかだ。
学内新聞のトップを飾り立て、天羽を喜ばせるどころの騒ぎじゃない。
俺の教師生命は元より、運が悪ければ、お縄頂戴となる可能性だってある。
清掃員に不審物として回収された俺の服は、理事長室で保管している――先日、吉羅は確かにそう言っていた。
まずはヤツに会うのが先決だ。
重役出勤の名にふさわしい理事長サマが、この時間から出勤していると良いのだが……最悪、無人の理事長室に忍び込んで、服だけは捜索する必要がある。
何、几帳面な吉羅のことだ。分かり易く何処かにまとめてあるに違いない。
俺の根城である、音楽準備室に行くのも手ではあるが(いざというときのためにスーツ一式をロッカーに入れてあるのだ)隣が音楽室ということもあって、何かと生徒の目に付きやすく、猫が忍び込むには不向きだ。ここはリスクを最小限に抑えるべきであろう。
朝のホームルームから授業が始まるまでの間、俺は居心地の良い日溜まりで言葉通りにゴロゴロし、学院内が静かになった頃合いを見計らって、理事長室へと肢を運んだ。
* * *
「おや……?」
極力目立たないよう、人目を避けて移動していたつもりであるが、中庭を突っ切る途中で、音楽科の男子生徒に捕まってしまった。
(しまった……)
丁寧に磨かれた革靴を見て、思わず俺は毒づいた。
ゆっくりしすぎて、一限と二限との間の休憩時間にあたってしまったらしい。
「前肢の怪我……もしかして、君は日野の飼っている猫なのか?」
聞き覚えのある声に頭を上げ、間抜けな鳴き声が口を突いて出た。
「みゃ……」
(月森……)
――俺は猫だ。
故に人間の言葉は、分からなくて当然である……。
とばかりに無視して歩き出すと、学院期待の星、音楽科のサラブレッドは、素早いフットステップで、俺の正面に回り込んだ。
「いけない、そっちは危険だ……」
渋面を浮かべた月森が、おもむろに屈み込む。
「にゃっ――!?」
次の瞬間、俺の身体はふわりと宙に浮き、彼の腕の中に収まっていた。
「……この学院の誰もが猫を好んでいるわけではない。気をつけないとつまみ出されてしまうだろう」
んなこたぁ、自称・森のお猫様たちの世話係である俺が、一番分かっている。
「それに日野は授業中だ。昼休みまで会えない」
「んみゃぁ!」
(大きなお世話だ!)
頼む、とっとと解放してくれ。
今の俺には、お前さんに付き合っている余裕はないんだよ――。
すぐにでも暴れて腕の中から逃げ出したかったが、相手はまたしてもヴァイオリニストの卵。
迂闊に引っ掻いて、指に怪我を負わせるわけにはいかなかった。
「困ったな……金澤先生がいれば、世話をお願いすることもできるのだが……」
ははは、残念だったな。
その金澤先生は今、お前さんの腕の中にいるぞー。
「……ひとまず、森の広場に連れて行けば良いのだろうか?」
自問自答する月森の腕の中でゆらゆらと揺られながら、今し方、抜けてきたばかりの景色を逆行する。
あと一マスでゴールというところで、俺は「振り出しに戻る」を踏んだ気分だった。
「ここまで来れば大丈夫だろう……日野が戻るまでは、おとなしくしていた方がいい」
森の広場の入り口で、そっと芝生に下ろされた。
ヴァイオリン一筋で動物に興味などもちそうにない月森が、俺に対し嫌悪感を抱いていないのは、いささか意外だった。
もっとも、俺がただの野良猫ではなく、日野の飼い猫だからなのかもしれないが……。
* * *
呑気なチャイムの音が聞こえる。
どうやら二限の授業が始まったようだ。
(――参った)
手痛いタイムロスだった。
今度はより慎重に向かわなければならない。
(――生徒の多い中庭を横切ったのが、そもそもの失敗だった……)
ここは、かなり遠回りになるが、グラウンドの脇を抜けて、音楽科校舎の方から回り込んだほうが安全かもしれない。
目指す理事長室は、グラウンドと平行して建つ特別教室棟の中庭側に面していた。
俺は簡単に敗因を分析すると、グラウンドの脇に続く植え込みの下を、目立たないように歩き出した。グラウンドでは、体育の授業を受ける男子生徒が、ハードルを並べている姿が見える。
(……ん?)
全身がむず痒い。
今までに経験したことのない痒みだが、植え込みの葉っぱにかぶれたわけでもなさそうだ。
ぞわぞわと背中の毛が逆立つ。
(いかん――この感覚は、マズいぞ!)
俺は本能的に迫る来る危険を、身体に起こり始めた変化を悟った。
――おそらく、魔法が解けかけている!