吾輩は猫である
こうなったら、形振(なりふ)りなんて構っていられない。
俺は猛ダッシュで、校舎の脇を駆け抜けた。
限界まで四肢を伸ばす……急激な動作に全身が痛み、身体がバラバラになりそうだったが、今は距離を稼ぐことだけに神経を集中した。
作戦変更――最悪の事態を想定した「パターンB」へと切り替える。
目的の部屋までは、およそ二十メートル。
予想通り、グラウンド側の窓が僅かに開いているのが見えた。
今の俺の大きさならば、行ける! 行けるはずだ!
猫神様……頼む、どうか間に合ってくれ――!
俺は最後の力を振り絞って地面を蹴ると、窓の隙間から室内に飛び込んだ。
「……にゃっ」
くるりと反転して、木目調の床に足音を立てずに着地する……が、少しよろけた。
――こいつはようようにヤバイ。
残った力をかき集めて再び跳躍すると、目の前に並んだベッドのひとつに潜り込んだ。
「みゃぁぁぁ―――!」
俺の全身が黄金色の光に包まれ、あまりの眩しさに視界が眩む。ひどい耳鳴りがして、冷たい汗が背中から噴き出すような感覚があった。
「―――っ!」
全身に広がる違和感に耐え切れず、俺は思わずまぶたを閉じる。
「…………」
その瞬間、俺の意識は闇に呑み込まれた。
* * *
「……う、……んっ……?」
目を開けば一面、白い世界だった。
――妙に息苦しい。
俺は何やら、柔らかな物体に顔を埋めていた。
「うぐっ……枕?」
呼吸を奪わんと鼻に押し付けられた感触の正体は、清潔な白いカバーに包まれた枕である。
呻きながら首を動かすと、解けた俺の猫っ毛が、その動きを追い掛けるように、やはり白いシーツに広がっていった。
「元に……戻ったのか?」
俺は節くれ立った五本の指の生えた手のひら――無論、毛に覆われていないし、肉球もない……を見て、しみじみと呟いた。
身体を起こし、床に目を向ければ、さっきまで前肢に巻かれていた包帯が、だらしなく落ちていた。
はっとして右手を見ると、甲にうっすらと傷痕が残っている。しかし痛みはないし、目に付くほどのものでもなかった。
間一髪――最悪の事態は回避できたらしい。
「あ〜危なかった……」
ほっとして大きな溜め息をつく……と、消毒薬特有の刺激臭が鼻をついた。
そう、ここは特別教室棟の一階にある保健室だ。
壁に掛かった時計を一瞥する――どうやら、俺が意識を失っていたのは、ほんの数分らしい。
まだ午前中の早い時間というせいもあってか、三床並んだベッドはすべて空いていた。目隠しのカーテンも開いている。
今までの不運を打ち消すかのように、校医も離席中だ……つまり、今、この部屋には俺しかいないということになる。
「やれやれ……ひでぇ目にあったぜ……」
久し振りに思い通りに動く手で、俺は乱れた頭髪を適当にまとめ直す。
「さてと、後はどうやって、吉羅のヤツとコンタクトを取るかだな……」
口に出してはみるものの、本心ではさほど心配はしていなかった。
俺はもう人間の言葉を普通に話せるし、校医のデスクには内線電話もある。
今までの苦労を思えば、遙かに容易いことだろう。
「……ん?」
元に戻ったはずの俺の耳が、廊下に響く足音を素早く捉えた。足音は次第に大きくなり、確実にこちらへと近付いている。
「まずいな……」
俺はベッドに戻り、急いで掛け布団を引っ張り上げると、首まですっぽりと潜り込んだ。
なんてったって、布団の下は素っ裸だからな。ばれるわけにはいかない。
――ここまで来たんだ、後は上手く乗り切ってみせるさ。
保健室の前で足音がぴたりと止まり、勢いよくドアが開いた。
吾輩は猫……じゃねーぞ。
紆余曲折あったが、ようやく人間の姿に戻れた。
さて……事態の収束までは、もう一息だ。