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吾輩は猫である

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 いざ、なってみて、初めて分かることもある。
 よく動物は、気を許した相手にしか腹を見せないというが、それはごもっともだ。
 確かに、腹を出して寝るのは無防備だ。無防備すぎる。

 俺は日溜まりの中で、くるんと丸まってまどろんでいた。まさに猫背――当然だ、今の俺はれっきとした猫なのだから……。
 暖かな陽射しを浴びるのは心地が好い。
 しかし、どうにも落ち着かないのは、やはり服を着ていないからだろうか。

 ……服?
 そういや、俺の服ってどうなったんだ!?

 俺は慌てて飛び上がると、周囲を見回す。
 少し離れた楡の大木の下に、俺の服が一式……まるで脱皮したサナギの如く、脱ぎ捨てられていた。
 白衣は勿論、中に着込んでいたセーターや下着、素足に突っ掛けていたサンダルまで、ごっそりと揃っている。その有様を見て、俺はガキの頃、漫画で読んだ透明人間を思い出した。
 つまり元の姿に戻るときには、真っ裸ってことか。
 ――重要事項、其の一。
 忘れないよう、脳内にしっかりとメモをする。
 重要事項、其の二――この服を誰かに見られたら、非常にまずい。ただでさえ芳しくない俺の風聞に激しく下方修正。
 何処かに隠すしかないだろう。ひとまずは、そこの茂みでいいか。
 一番上に掛かってる白衣は……見るからにでかいし、重たそうだから後回し(ポケットには携帯電話、鍵束、小銭入れといった重たい物がたくさん入っているのだ)

 まずは荷物運びの要領を掴むべく、白衣の下に埋もれたセーターの裾をそっと咥えた。
 これ、結構高かったんだよなぁ……。
 犬歯をたてすぎないように慎重に咥える。それから茂みの奥へ、ずりずりと引き摺って運ぶ。
 情けないぞ、猫の俺。
 こういうときに限って、吉羅のヤツは姿を見せない。ホント、使えない男だ。
 あー雨、降らないといいな。今朝の天気予報、どうだったっけ……。


 時々、休憩を挟みながら、俺は地道に服を隠していった。
 それにしてもえらい重労働だ。
 普段、何気なく着ている衣服が、猫基準に換算すると、こんなに重いものだとは知らなかった(下着を咥えて歩くザマは、生涯最大級の屈辱だったことをここに明記しておく)
 最後に残るは大物――白衣だ。
 ポケットの中身は迂闊に抜くと、収拾がつかなくなりそうなので、そのまま運ぶことにする。

 ぱきり。
 俺の耳がぴくりと動き、小枝の折れる音を捉えた。
 
 誰かが来る――!

 咥えて引き摺りかけた白衣を離し、前肢を突っ張って全身の毛を逆立てる。俺は小さく息を呑んで、近くの茂みに飛び込んだ。
 吉羅が戻ってきたのだろうか。
 大きく揺れる葉の隙間から、そっと頭を出して様子を窺う。

 ――しかし、そこに現れたのは、ヴァイオリンを抱えた、普通科の女子生徒だった。

(日野っ……!?)

 星奏学院普通科二年二組。日野香穂子。
 俺とは「教師以上、恋人未満」な関係。
 現在、清く正しく水面下にて交際中――いや、あれは交際とすら呼べない状況かもしれない。
 放課後、彼女のヴァイオリンの練習に付き合って、一緒に茶……というか、コーヒーをすすって他愛のない世間話をする程度の間柄なのだから。
 教師という立場上、おいそれと手を出すわけにもいかず、あれこれヤリたい青春真っ盛りの彼女には申し訳ないが、高等部を卒業するまでは、ひたすら我慢してもらうしかない。
 ん……?
 我慢を強いられているのは、むしろ俺の方か?
 まあ、そんなことはこの際どうでもいい。
 何てったって、猫だしな。ははは……。

「あれ、おかしいな。確かこっちから物音が聞こえたはずなんだけど……」
 そう言って、日野はきょろきょろと辺りを見回す。
 音楽準備室にいない俺を、捜しに来たのだろうか。
 屋上を覗いて見当たらないとなれば、次に向かう先は森の広場――その判断は、ある意味では正しい。
「え……?」
 日野は地面に広がった、不自然な白衣に目を留めて立ち止まった。
「これ、先生の白衣……?」
 拾い上げた大きな布きれをまじまじと見つめる。
「でも、どうしてこんなところにあるんだろう?」

 ――マズイ。

「えへ、ちょっとだけ……いいよね」
 人目がないのを良いことに(猫目はしっかりあるのだが……)日野ははにかんだ様子で、俺の白衣を羽織ってみせる。
 小柄な日野に大きすぎるそれは、彼女の足首までもをすっぽりと被ってしまった。肩は見事にずり落ちているし、袖もだぼだぼだ。
「ふふっ、先生の匂いがする……」
 あーあ、頬まで染めちまって……。
 萌える構図じゃないか、こん畜生――って、畜生は俺だった。
(んっ……?)

 猫は人間よりも耳が良いらしい。
 また、新しい足音が近付いて来るのが分かった。
 さっきの日野とは対称的に、こちらは落ち着いて実に堂々としている。おそらくは男性のものだ。

「せんせ――」
 俺だと信じ切って振り向いた日野は、そこにたたずむスーツの長身を見て硬直した。身長は俺とほとんど変わらないのだが、姿勢が良い分、ヤツの方が高く見えるのが腹立たしい。
「日野君。こんなところで、どうかしたのかね」
「り、理事長……」
 今度こそ、吉羅理事長様のご登場だ――まったくもって、タイミングの悪いヤツだよ。
「おや……?」
 俺の白衣を羽織った日野を見て、吉羅は露骨に眉を顰めた。
「あっ……! わわっ……これは、その……ち、違うんですっ!」
 日野は真っ赤になって、意味不明な言葉を口走りながら、慌てて白衣を脱ぐ。今更隠したところで、しっかり見られていると思うのだが……。
「化学の実験でもするのかね。君にはいささか大すぎるサイズのようだが……」
「わ、私のじゃありません。そこに落ちていたんです……多分、金澤先生の白衣じゃないかと思うんですけど、昼寝して忘れちゃったんでしょうか」
 彼女の必死な説明で、ようやく状況を理解したらしい。
 吉羅は額を押さえて溜め息をつくと、大袈裟に呆れる振りをした。
「まったくあの人は……ズボラにもほどがあるな。分かった。後で金澤さんと会う予定があるから、私から返しておこう」
「すみません、お願いします」
 日野はぺこりと頭を下げて、折り畳んだ白衣を吉羅に差し出す。
 ともあれ、これでポケットの携帯電話が、雨に濡れてお亡くなりになることだけは、回避できるわけだ。
「あの……理事長はどうしてこちらに?」
「私か? 私は……」
 吉羅は片手にぶら下げていたビニール袋を、受け取った白衣の代わりに差し出した。
 流されるままにそれを受け取った日野は、中を覗き込んで首を傾げる。
「理事長……これ、猫缶ですよね?」
「桃の缶詰にでも見えるかね。ふむ、確かこの辺りにいたと思うんだが……」
 渋面のまま、周囲をざっと見回した。

 なるほど。そう言うことか。
「みゃぁ……」
 仕方がないので、俺は茂みから出ると、わざとらしく鳴いてみせた。

「あっ……猫」
 俺の姿を見た日野が、嬉しそうな声をあげる。
「そうだ。ちょうどいい。日野君、この野良猫に餌をやってくれないか」
作品名:吾輩は猫である 作家名:紫焔