吾輩は猫である
足元にすり寄った俺を見下しながら、吉羅は「野良」の部分をやたらと強調して言った。くそっ、プレスの利いたスラックスの裾に毛を付けてやる。
「えっ、私がですか!?」
突然振られて、きょとんとする日野。
「ああ、君にだ。……私もこの野良猫の面倒を金澤さんに押し付けられたんだが、理事会の準備が忙しくてね。どうかな、君さえ良ければ、代わりに引き受けてくれないかね?」
「代わりにって……先生はどうしたんですか?」
「実は、金澤さんに急な出張が入りそうなんだ」
吉羅の言葉に、日野はか細い声で「そんなの聞いてないよ……」と呟いた。
ああ、まったくもって同感だ。
俺もついさっき聞いたばかりなのだから……。
「どうかね、頼めるかね」
「はい……分かりました」
学院理事長の命令を一生徒が断れる由もない。
日野は肩をしゅんと落として頷いた。
……もっとも、彼女が落ち込んでいる原因は、猫の世話を押し付けられたことではないだろう。
「有り難う。餌が足りなくなったら、私に声を掛けてくれたまえ。すぐに用意しよう」
猫になりきって、スラックスの裾にじゃれついていた俺の頭上に邪悪な影がよぎる。
「……にゃっ!」
次の瞬間には、屈み込んだ吉羅に、ひょいと持ち上げられていた。
毛が付かないように、微妙に上着から離しているあたりが、何とも憎らしい。
「みゃっ、みゃっ」
(何するんだよ、下ろせ!)
俺は宙ぶらりんになった後肢をばたつかせ、精一杯の抵抗を見せた。
「おっと、首輪を用意するのを忘れていたな」
「みゃっ、んにゃぁぁぁ……」
(んなモン、要るか!)
真っ正面から吉羅の仏頂面を思い切り睨みつけて、うなり声をあげる。
「何だ、不満か? お前だって『彼女』の方がいいだろう」
吉羅は湿った俺の鼻の頭を親指で撫でながら、小声で囁き、にやりと笑った。
この野郎……元の姿に戻ったら、憶えてろよ。
そんな俺と吉羅の険悪なやり取りを、何も知らない日野は微笑ましく見守っている。
「理事長、その子はオスですか?」
「ああ、そうだ」
「名前はなんて言うんです?」
吉羅はその問いに答えることなく、日野と向かい合うと、両手で掴んだ俺をすっと差し出した。
引っ掻いてやろうと、出しかけていた爪を慌てて引っ込める。
「えっ、えっと……」
白く細い腕が伸ばされ、俺は彼女の腕にすっぽりと収まった。背中に当たる柔らかい感触が何であるか、考えてはいけない。
「名前は知らない。君が好きにつけたまえ」
「あ……」
「では、失礼」
口の端を僅かに弛めて吉羅はそう言うと、日野が引き留める間を与えずに、立ち去ってしまった。
後には(猫になった)俺と日野だけが取り残される。
――吾輩は猫である。
名前はたった今、日野香穂子に委ねられた。