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吾輩は猫である

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「キミ、見ない顔だね」
 抱きかかえたまま、日野が俺の顔をまじまじと見つめる。

「……にゃぁ」
 間が保たなくて、つい鳴いてしまった。
「ふふっ……もしかして、ハナさんのダンナさんの隠し子だったり?」
「にゃんにゃん」
 それとなく、首を振って否定してみる。
 ――というか、隠し子前提なのか、日野よ。
「ふふっ……違うよね。キミ、子猫ってほど、小さくないもんね」
 どうやら、俺の反応ではなく、体格から違うと判断したようだ。
 全身をこの目で見たわけではないが、俺の体格は並の猫よりも少し大きいような気がする。
 ひょっとして、俺を長時間抱いているのは、結構辛いんじゃないか……?
 そう思って、軽く後肢をばたつかせると、地面に下ろされた。
「不思議だね。キミの毛並みを見てると、何だか先生を思い出しちゃう……うーん、先生の髪の色と同じだからかな?」
 勘が良いのか、悪いのか――。
 日野はしゃがみ込んで、再び俺に目線を合わせると、頭を優しく撫でた。心地好い感覚に耳がくたっと垂れる。
「……さっき理事長、名前を決めていいって言ってたよね。男の子だし……」
 そう呟いて、恥ずかしそうに頬を染めた、
 何故だろう。
 ひどく嫌な予感がする……。

「うん、決めた。キミの名前は『ヒロ』さんね」

 日野のヤツ、また勝手なことを……。
「ヒロさん……? ダメ? 気に入らない?」
 ああっ、もう、そんな顔するなって。
「にゃあ〜」
「あーはいはい、気に入りましたよ」と、精一杯可愛いらしい声で鳴いて、彼女の足にすり寄る。
 俺、激しく自己嫌悪。
「良かった。気に入ってくれたんだね。ヒロさ〜ん」
 なんて嬉しそうに呼ばれるものだから、これはもう、呼応するしかない。
「ヒロさん、可愛い!」
 やれやれ……。
 首をがっくりと落とした瞬間、俺は彼女のスカートの中を直視してしまった。
「――――!」
 目と鼻の先に広がるワンダーワールド。
 白か――じゃなくて!
 今のは全部忘れてしまえ、俺っ!
「……?」
 全身の毛を逆立てて狼狽える俺を見て、日野がきょとんとする。
 そりゃそうだ。
 悪いのは無防備な日野じゃない。猫がパンツを覗くなんて、普通の人間はまず考えない。考える方がどうかしてるってもんだ。
 あー事故だ、事故。
 以上、この件に関する追求終わり。
 
「あっ……そっか。ご飯、だよね」
 都合良く勘違いしてくれたようだ。
 日野は吉羅から渡されたビニール袋を漁り、缶詰をひとつ取り出した。
『黒缶プレミアム・マグロ味』
 ――さすがは吉羅だ。猫の餌ランクなんて分からないだろうから、店で一番高い奴を選んだだけだろう。とりあえず、カリカリじゃなくて良かった。
「直接、缶のままじゃ危ないよね。先生、どうやってあげてたんだろう……?」
 どうやって?
 そりゃ勿論、芝生の上でダイレクトにぶちまけてましたよ、お嬢さん。
 三十余年、人間として暮らしてきた身として、いざ自分が食べる番になると、それは嫌だと素で思った。
 猫生を経験して、初めて分かるってこともあるもんだな。
「やっぱり餌入れを用意したほうがいいよね……あ、これ、何だろう?」
 日野が袋の奥から、プラスチック製の底の浅い器を取り出した。いわゆる「餌入れ」って奴だ。
「すごい、さすが理事長。気が利くなぁ……」
 しきりに感心しながら缶のプルタブを引き上げると、中身をピンクの器に移す。
 おい、この色のチョイスは、吉羅の嫌がらせか?
「はい、お食べ……」

 目の前に出される猫の餌。
 猫が食べるのは、キャットフード。
 日野は何ら間違ってはいない。

 ……俺は猫だ、猫なんだよ。

 上目遣いに日野を見上げると、大きな瞳を輝かせ、興味津々といった様子で俺を見守っている。
 あわよくばこの場から逃げ出そうと、ほんの一瞬、思ったりもした俺であるが、すぐに諦めた。こうなったら腹を括るしかない。
 当たり前だが、猫の餌を食べるのは、これが初めてである(どんな味か気になって、一度、匂いは嗅いだことがあるが……)
 人間が食べても美味いという噂は聞くが、実際のところはどうなのだろう?
 有り難くもない貴重な初体験。俺はおっかなびっくり、半生状のそれに口を付けてみる。
「…………」
 生臭く、塩気が激しく足りない、ツナ缶みたいな味だった。
 お世辞にも美味いものではない。
 猫の味覚が人間と激しく異なるのか、テスターだった猫が味音痴だったのか……。
 今の俺の味覚が、人間基準なのか、猫基準なのかはこの際置いておくとしよう。とにかくキャットフードは、非常に不味いものだ。
 食欲なんて微塵もないが(昼に食ったカップラーメンがえらく懐かしい)これを逃せば次にいつ餌にありつけるか分からない。ああ、悲しき野良猫の性。
 だから俺は夢中で食べる……夢中なのは、勢いをつけて食べないと、途中で挫折しそうだからだ。
 そんな俺の姿を、日野は微笑ましそうに見守っていた。端から見れば、微笑ましい光景。俺にとっては、涙ぐましい光景……。


「すごい、綺麗に食べたね」
 空になった器を前に、日野が感嘆の声をあげる。
 日頃、白衣のポケットに突っ込んで持ち歩いている小さな缶の中身が、これほど腹に堪えるものだとは思いもしなかった。
「残さなかったね。ヒロさん、偉い、偉い」
 ご褒美とばかりに、頭を撫でられる。うーん、何だか癖になりそうだ。
「……みゃ」
 俺はひどく喉が渇いていた。
 早く水を飲んで、口の中に残った生臭い、嫌なもやもや感を流したかった。
 だが、この手(肢)では、水道の蛇口は捻ることができないし、ペットボトルも開けられない。
 猫になると、水すら自由には飲めないのか。まったく、猫生も楽じゃないぜ。
 水を飲むには、どうすればいいのだろう……?

 おお、我が救いの女神よ、気付いておくれ。
 人間だってメシを喰ったら、食後に緑茶やコーヒーを飲むだろう?
 ああ、お前さんは、確か烏龍茶派だったっけな。
「にゃぁ……」
 俺は思いのたけを込めて、日野を見上げて鳴いてみる……が、にっこりと微笑まれただけだった。
 諦めず、もう一度挑戦してみる。
「にゃぁ、にゃあ!」
「なぁに……? ヒロさんもヴァイオリンが聴きたいの?」
 無念。俺の思いは伝わらなかった。


「みゃぁ……」
 涙は出ないけれど、泣きたい気分だった。
 何も知らない日野。
 何度も言うが、彼女に罪はない。
「もう、分かったから……お皿を洗ってくるから、ヒロさんはここでおとなしくしてるんだよ。戻ってきたら、ちゃんとヴァイオリンを弾いてあげるからね」
 そう言うと立ち上がって、すたすたと手洗い場の方へ行ってしまった。

 猫缶の詰まったビニール袋とヴァイオリンケースに並んで、ぽつんと一匹、残される俺。
 今からでも一緒に付いて行けば、水にありつけるだろうか?
 ふらふらと、おぼつかない足取りで、日野の後を追う。腹がいっぱいで、とてもじゃないが、走る気にはなれなかった。

 やがて、池に架かった橋に差し掛かる。
 橋の真ん中で立ち止まると、身を乗り出して水面を見つめた。
作品名:吾輩は猫である 作家名:紫焔