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吾輩は猫である

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 後になって思えば、それは軽い脳震盪を起こしていたのかもしれない……。

 水中で俺は、一瞬、気を失いかけた。
 ごぼごぼと激しく泡を吐き、肺に大量の水が流れ込む。
 皮肉にも、その苦しさのせいで、手放しかけた意識を取り戻すことができた。
 
 顔を上げれば、遙か頭上で光のカーテンが揺らめいている。あそこが水面か。
 池といっても、人工的に造った溜め池だから、大した深さはない。
 ……あくまで人間基準の話だが。
 猫サイズに換算すれば、結構な水深となる。これは死活問題だ。
 ――こんなところでくたばって堪るか!
 俺は水面に向かって必死に泳いだ。

「……うにゃっ!」
 水面に顔を出し、勢いよく口内に溜まった水を吐き捨て、数分ぶりに新鮮な空気を吸い込む。
 ふう……危うく溺れるところだった。
 長い人(猫)生の中で、初めて溺れたのがこれだなんて……まったく、シャレにならんよ。
 俺は四肢をばたつかせた無様な猫かき(?)で、岸壁へと向かう。

「ヒロさん、大丈夫――!?」
 血相を変えて駆け寄った日野が、岸辺へと辿り着いた俺の身体を掴んで引っ張り上げる。芝生の上にそっと下ろすと安堵の溜め息をついた。
「無事で良かった……」
 大量に飲み込んだ水のせいで、俺は激しく咳き込んだ。全身がぐっしょりと濡れて、毛皮が重たい。
「濡れ鼠」――ではなく「濡れ猫」の出来上がりだった。

「にゃぁ……」
 俺は日野から少し離れると、ぶるぶると激しく頭と身体を振って、水を飛ばした。
 なんつうか……意外と本能的に動けるもんだな。
 多少は軽くなった頭を持ち上げ、何気なく辺りを見回す。
 少し離れた草むらに、真っ赤なフリスビーが転がっていた。
 むむむ、あれが俺を池に落とした凶器か。
 いったい誰がこんなモノを――。

「ごめん! 日野ちゃん……大丈夫?」
 推理するより早く、明るい髪の男子生徒が、手を振りながらこちらに駆けて来た。
「火原先輩……?」

 ――犯人はお前か、火原っ!
 
 森の広場は「飛び道具禁止」のはずだ。
 いや、そもそも卒業を間近に控えた生徒が、どうしてこんなところで遊んでいるんだよ。
 他にもっとやるべきことがあるだろう? こう……ほら、色々とな……。

「ごめんね。おれが取り損なったから、日野ちゃんの方に飛んで行っちゃったんだ。いきなりで、びっくりしたよね?」
「いえ、私は大丈夫ですけど……」
 日野は困惑した顔で、ずぶ濡れになった俺を見下ろした。
 彼女に被害はない。
 ブチ当たったのは、俺だからな。
 だが、注意力の足りない火原のことだ。彼女の困惑する原因に、自力で辿り着くことはないだろう。
「日野ちゃん? どうかした……って、猫? 見ない顔だね」
 火原はそこまで言ってようやく俺の存在に気付き、身体を屈めて覗き込んだ。
「はい、理事長から世話をみるようにって頼まれたんです」
「あの理事長が? へぇ、ちょっと意外だなぁ……でも、随分、濡れてるけど……?」
 ふん、誰のせいだと思っている。
「それは、その……さっき、池に落ちて……」
「あ……もしかして、おれのせいだったりする?」

 ――That's right!
 反省しろ、この馬鹿者が。

「……多分」
 火原の問いかけに、日野は申し訳なさそうに頷いた。
「そっか。悪いことしちゃったなぁ……」
 俺の頭を撫でようと、伸ばしかけた火原の手がぴたりと止まる。何かに驚いたように、ただでさえでかい双眸を大きく見開いた。
「ねぇ、日野ちゃん。この猫、ケガしてるよ――!」
「嘘っ!?」
「にゃっ!?」
 日野と一緒に俺も「嘘っ!?」と叫んでいた。まあ、叫んだところで、猫の鳴き声にしか聞こえないわけだが。

「ほら……前肢のここ」
 火原は俺の正面にしゃがみ込むと、右の前肢を軽く持ち上げた。
「あっ……」
 そこはざっくりと切れて、血がにじみ出ている。
 池に落ちたとき、何か尖ったものに引っ掛かったのかもしれない。
 傷口ってのは、気付いた途端に痛くなるから、不思議なもんだ。熱を持つような感覚と、鋭い痛みが尻尾の先まで、びりびりと駆け抜ける。
「にゃぁぁぁ……!」
 痛みのあまり、俺は情けない声をあげてしまった。
「あっ、ゴメン! 痛かったよね」
「どうしよう。早く手当しないと……」
 突然のアクシデントに、おろおろする日野を見ていると、俺の方が申し訳ない気分になってくる。
「うーん、保健室で診てもらえないかな?」
 んなわけねーだろ。どんな保健室だよ。
「でも、人間と同じ薬は使えない気がします」
「それもそうだね。じゃあ、どうしようか……」
 ああっ、もう、それ以上寄るな、火原。
 元はと言えば、お前のせいだろうが。

「火原先輩。柚木先輩が迎えに来ていますよ……」
 新たな男子生徒の声が、どっしりとした足音とともに近寄って来た。
 一向に戻らない火原を心配して、様子を見に来たのだろう。

「あっ、土浦君……」
 茂みの向こうから姿を現したは、土浦だった。
「日野……」
 よりによって、火原の相手をしていたのが、コイツだったとは……。
 真面目だし、何でもそつなくこなすし、普通に接する分には申し分のない生徒だが、こと日野に関してだけは、何かにつけて保護者面する態度が、俺は前から気にくわなかった。
「猫?」
 俺の姿を見て、土浦が怪訝な顔をする。
「うん、おれのせいで、この猫にケガをさせちゃったみたいなんだ」
 火原につられるように、屈み込むと俺の傷口をじっと見つめた。
「結構深そうですね。消毒と、できれば獣医に診せたほうが良いかもしれません」
「うん、やっぱりそうだよね」
「あっ、火原先輩……触っちゃダメですって!」
 素人がよってたかって、傷口の状態を探る。
 だから……触られたら、痛いっつーの。
 
「シャーッ!」
 俺は毛を逆立てて、威嚇した。

「何だよ……人が親切にしてやろうってのに……」
 むっとした顔で、土浦が鋭く睨みつける。
「土浦君も落ち着いて……この子、ケガのせいで、ちょっと気が立っているみたいです」
 日野があやすように、優しく俺の頭を撫でた。彼女にだけは、絶対に逆らわない俺。
「でも、日野ちゃんには懐いているみたいだね」
「そんな……私も今日、会ったばかりですよ」
「ふん、とんだエロ猫だな」
 脳天気な火原に、敵意剥き出しの土浦。
 どうやら悪意という名の感情は、種族を超えても伝わるものらしい。
 ん……俺って、こんなに大人げなかったっけ?

「火原先輩、この子の手当は私がなんとかします。理事長に頼まれたのは私ですし……それに、柚木先輩が待っているんですよね?」
 俺の態度から何かを悟ったのかもしれない。日野がそんなことを口にした。
「えっ……でも、大丈夫?」
「はい。母の知り合いに獣医さんがいるので、そこに連れて行こうと思います」
「そっか。それなら安心だね。ゴメンね、猫ちゃん」
「あ、この子は『ヒロ』さんって名前なんですよ」
「ヒロさん? はは、何だか金やんみたいだ。確かに毛の色がそっくりだもんね」
 火原の言葉に、日野は真っ赤になった。ホント、分かり易いヤツだよ。
作品名:吾輩は猫である 作家名:紫焔