吾輩は猫である
5
俺はクラス担任を持っていないから、家庭訪問ってやつをしたことがない。
無論、それは日野に対してだって例外ではなく、練習で遅くまで学院に残っていた彼女を、自宅玄関の前まで送ったことが、数回ある程度だ。
だから、家に上がるのも、ましてや、彼女の部屋に入るのも、これが初めてだった。
しかも今回の俺は「訪問」どころか「保護」されたワケで……。
日野の部屋は、拙い想像で思い描いた通りな、年頃の娘の部屋だった。
レースと暖色系のカラーで統一された部屋は、綺麗に片付けられており、ベッドの上には大きなクマのぬいぐるみが座っている。
机の前のコルクボードに貼られているのは、去年のクリスマスコンサートの後に撮った集合写真だ。小さいが俺もしっかり写っていた。妙に照れくさい。
「はい、ヒロさん。ここがキミのベッドだよ」
そう言って日野が用意したのは、籐の籠に子ども用の小さな毛布を敷き詰めた、俺専用の簡易ベッドだった。ご丁寧なことに、怪我をした肢でも自由に出入りができるようにと、クッションで適度な段差まで作られている。
「みゃぉ」
俺は感謝の意を込めて一声鳴くと、毛布の中心でくるんと丸まった。
「ふふっ、気に入った? 寒かったら後で湯たんぽ、入れてあげるからね」
日野は嬉しそうな笑顔を浮かべると、俺の頭を何度も撫でる。俺も喉を鳴らして、それに応えた。ああ、至福の時間……。
しばらくの間、俺の頭を撫で回し、喉をくすぐって戯れていた日野であるが、階下から母親に呼ばれて、部屋を出て行った。
静寂に満ちた、しかし暖かな室内。
(ふぅ……)
俺は小さな溜め息をついて、包帯の巻かれた前肢をじっと見つめる。
傷口は見た目よりも浅かったようで、縫わずに済んだ。ビタミン剤と消毒効果のある軟膏を渡されて、野良猫の診察はすぐに終わった。
全治三日から一週間――忌々しいファータの魔法が解けるギリギリの時間だ。
日野家の面々は、末娘に対して非常に理解があるらしく、期限付きで俺の面倒をみることは、全員一致で承認された。
だいぶ春らしくなったとは言え、夜になればまだかなり冷える。
温かい屋根の下で眠れるのは、有り難いことだった。(ここだけの話、ダメなら吉羅の車に潜り込んでやろうと思っていた)
猫生の先輩である学院の野良猫たちに、野生の知恵を学ぶ良い機会ではあったが、普段、俺をどんな目で見ているのか知ってしまうと、今後、気軽に相談ができなくなりそうで、考え物だ。
暗黙の了解で、俺の寝床は拾い主である日野……つまり香穂子の部屋に用意された。
ちなみにトイレは廊下の隅に設置されている。これには内心ほっとした。
ケダモノになっても羞恥心は残っている。
教え子の前で排泄行為をするわけにはいかない。例え今の姿が猫だとしても、だ。
夕飯が終わると、日野は勉強机に向かっていた。
彼女は来年度から、音楽科に転科することが決まっている。
彼女の家には防音室がない。放課後はヴァイオリンの練習にめいっぱい割り当てて、夜は基礎理論や音楽史を勉強しているのだろう。
ここはひとつ音楽教師らしく、アドバイスでも……してやりたいのは山々なんだが、この手(肢)と声では、何もできない。すまんなあ、日野。
――そういうわけで、俺は相変わらず暖かな寝床で丸まっている。
猫になってからというもの、眠くてたまらない。
猫って生き物は、一日の殆どを寝て過ごす生き物だ。
本能がそうさせるのか、気がつくと、俺もウトウトとまどろんでいた……。
椅子を引く音に、耳がぴくりと立った。
時計を見ると、あれから一時間近くが経過している。つい、眠ってしまったようだ。
勉強を終えた日野は、ベッドの端に腰を下ろすと、握り締めた携帯電話の液晶画面を見つめる。
「先生、出張に行くなら、メールぐらいくれてもいいのに……」
ぼそりと呟いたその一言に、俺の小さな胸は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
無精な俺は、殆ど携帯メールを送らない。
パソコンのキーボードで打つならばともかく、携帯電話の小さいボタンを連打するのは、どうにも性に合わなかった。それに絵文字ってやつも気恥ずかしくて使えない。
顔が見えない分、些細な言葉で彼女を傷つけてしまわないかと心配になって、何を打てばよいのか分からず、結局、途中で止めてしまうこともあった。うん、こっちの方が本音かもしれないな。
それでも、特別に伝えなければいけないことがある場合や、大事なイベントの前日なんかには、最低限のごく短いメールは打っていた。
今回だって……いくらこういう事態だとはいえ、吉羅に何らかのフォローを頼むべきだった。
俺、激しく後悔。
「ね、ヒロさん、聞いてくれる……?」
日野は携帯電話を枕元に置くと立ち上がり、俺を抱き上げた。
「にゃっ……」
宙ぶらりんのまま、俺は長い尻尾を揺らす。
何となく、これから彼女が話そうとしていることが予想できるだけに、複雑な心境だった。
できればその話は聞きたくない。
「ごめんね、ちょっとだけ付き合って」
そう言って、日野は俺を抱いたまま、再びベッドに腰掛けた。
――分かってるよ。彼女は猫に話し掛けているだけなんだ。
俺だって、よくウメさんやタビを捕まえては、ささやかな人生相談をしているのだから、人のことを言えた義理じゃない。
だけどさ、やっぱりそれはマズイんだよなぁ……。
「私の好きな人はね、学校の先生なの」
――直球だった。
「いい加減で、だらしなくて、口癖みたいにめんどくさいって言ってすぐに逃げちゃうし、しょっちゅう仕事をサボって猫と遊んでいるし、もう、ホントにどうしようもない人なんだ……」
今、明かされる、日野の本音。
まあ、予想範疇ではあるのだが……それにしてもひどい言われようだ。自覚はあってもこうして指摘されるとショックは大きい。だからって直す気がないのもまた事実ではあるが。
「……でもね、本当は面倒見がよくて、私が困っているときは必ず助けてくれる優しい人なの」
日野は懐かしいものを見るような目で、俺をじっと見つめる。
「なんでかな……最初会ったときからなんだけど、ヒロさんを見ていると、先生のことを思い出しちゃうんだ……あっ、ヒロさんの名前は先生からもらったんだよ。紘人のヒロ。ふふっ、これ、先生にバレたら、怒られちゃうかな……?」
それも分かっていたことだ。
怒るかどうかは……きっと呆れるだろうな。
紛らわしいのは、カホコとケイイチだけで充分だろう?
「私と先生の気持ちは通じ合っているはずなんだよ。でも、卒業するまでは言葉にしちゃいけない約束だから……いつもはヴァイオリンを弾いて、想いを伝えているけど、たまには言葉に出したくなるよね……」
――ああ、俺だってそうさ……。
だが、けじめとして俺から言い出したことだ。自分で守れなくてどうするよ。
「先生……黙って出張に行っちゃうなんて、ひどいよね。めんどくさがり屋さんなのは分かるけど、せめて私には教えて欲しかったな……」