お節介な贈り物
6
「さて……彼らは今頃、上手くやっているといいが……」
空のカップにコーヒーを注ぎ足すと、吉羅は窓の外に目を向けた。濃い藍色の空には、ぽっかりと月が浮かんでいる。あと数日で望月を迎えることだろう。
「まったく……私は何をやっているんだか」
――彼のためではない。すべては自分のためにやったのだ。
これ以上、余計な期待を抱かせないで欲しい。
何も間違ってはいない。これで良いはずだ。
「吉羅暁彦……」
目の前の空間が揺らぎ、黄金色の光が渦を巻き始める。
「アルジェント・リリ……こんな時間に何の用だ」
吉羅は静かに溜め息をつくと、うんざりとした顔で、光の中心から飛び出した羽根妖精を見遣った。
「相変わらずシゴトノムシなのか?」
「今日はもう閉店だ」
「それにしては、お前、何だか浮かない顔をしているぞ」
「気のせいだ。私は普段通りだ。全く変わらないよ」
アーモンド型の瞳が、じっと吉羅を見据える。
「……嘘は良くないのだ。我が輩を欺こうとしても、そうはいかないぞ。昨日、見かけた金澤紘人と日野香穂子も様子がおかしかった。お前のせいか?」
いつもは万年お花畑思考回路のくせに、こういうところだけは妙に鋭いのが、余計に吉羅の癇に障った。
「私のせい……だと? 別に大したことはしていない。ただ、金澤さんの態度があまりに煮え切らないから、少し背中を押してやっただけだ」
抑揚のないトーンに、妖精の双眸がにっと細められる。
「吉羅暁彦……お前は案外いいヤツなのだ。でも、本当にそれで良いのか? お前だって日野香――いたたたっ!」
吉羅は険しい形相で、にやにや笑う妖精を素早く掴むと、背中の羽根を摘み上げた。
「アルジェント・リリ。それ以上、無駄なお喋りを続けたら、自慢の羽根をむしるぞ」
「止せっ! 分かった、分かったから離すのだ!」
「…………」
戒めを解かれた妖精は、背中の羽根を懸命にばたつかせる。異常がないことを確認して、安堵の溜め息をついた。
「おや……今日は『邪魔だ、消えろ』と言わないのだな。寂しいのか? 我が輩でよければ付き合ってやろう」
「羽虫に同情されるとは、私も落ちぶれたものだ」
「ハムシとはシッケイな! 吾輩は虫じゃないのだ!」
吉羅は手に持った杖を振り回しながら抗議する妖精を一瞥すると、寂しそうな笑みを浮かべて、コーヒーをすすった。
「吉羅暁彦……本当にお前は素直じゃないのだ」
* * *
「あのぉ……」
香穂子は窓際のソファーに座って、クッションをぎゅっと抱き締めた。
「うん……つまり、これは、だな……」
対する金澤は、ベッドの端に腰を下ろして頭をかいている。
おかしな汗が噴き出しているのは、何も効きすぎた空調のせいだけではない。
「事故……ですよね。分かってます。別に先生が悪いんじゃないです」
ホテルにチェックインして、渡されたルームキーはひとつ。ドアを開ければ、そこは何故かグレードの高いツインルームだった。
吉羅から資料を受け取ったとき、ホテルの部屋をきちんと確認しなかったのは迂闊だった……。金澤は歯軋りをしながら、己の失態を悔やんでみるが、今更である。
「とにかく、教育的指導者として、やっぱりこの状況はまずいよなぁ……」
――異性の教え子と同室。
「わ、私は平気……ですよ。ほら、ベ、ベッドもちゃんとふたつありますし……」
――年上の恋人(予約済み)と同じ部屋。
「……だから、俺が大丈夫じゃないんだよ」
金澤は額を手で押さえて、呻るように呟いた。我慢大会にも程がある。
すぐに別室を用意できないか、フロントに掛け合ってみたが、この時期は何処も満室だと言われ、叶わなかった。ここが札幌ならばともかく、周辺で朝まで時間を潰せる健全な施設を見つけるのは難しいだろう。外にいようものなら凍死だ。
つまり、何をどうしても、朝までは同じ部屋で過ごすわけで……。
「……はぁ」
展望台の雰囲気に流されて、キスをしてしまったのが、緊張に拍車を掛けていた。困惑する香穂子の横顔を一瞥し、その可憐な桜色の唇に釘付けになる。
あの唇はどんな嬌声を紡ぎ出すのだろうか――?
組み敷いて、啼かせてみたいと切望している自分に、金澤は思わずぞっとした。
「えっと……今の時間はニュース……かな……?」
沈黙に耐えきれなくなった香穂子が、リモコンを取ってテレビをつける。電源を入れた瞬間、甲高い喘ぎとともに、絡み合う裸の男女が画面に映し出された。
「えっ!? やっ、あわわっ……!」
慌てて、主電源ごとテレビを消す。
有料チャンネルのボタンを間違えて押したらしい。
「いや……見たいなら、別に見てもいいぞ、興味のあるお年頃だろ?」
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
わざとらしく茶化した金澤の声に、真っ赤になった香穂子がぶんぶんと首を振った。
「ははは、そんなわけ……ないよな」
絶望的に間が持たない。
――もう限界だ。
金澤は立ち上がると、部屋の入り口に向かった。
クローゼットに掛けたコートのポケットから、馴染みの箱を取り出す猫背気味の広い背中に、弱々しい声が掛かる。
「先生……先にお風呂、使ってもいいですか?」
「あ、ああ。入れ、入れ」
小さく頷くと、香穂子は油の切れたロボットのようにぎくしゃくとした動きで、着替えの用意を始めた。それに気付いた金澤は慌てて目を逸らす。
この部屋がユニットバスではなくて、脱衣所がきちんとあるタイプであったことに、ほっと胸をなで下ろしながら、備え付けの冷蔵庫を開けた。
「未成年にゃ悪いが、飲ませてもらうぞ……」
缶ビールをひとつ適当に取り出して、窓際に立つと、プルトップを引き上げる。
缶に印刷されたラベルは、日頃飲み慣れたブランドのものであったが、妙に苦く感じた。
バスルームからシャワーの水音が聞こえる。
金澤は夜の裏通りを見下ろして、缶の中身を一気に呷った。外は雪がしんしんと降っている。人も車も通らない、静かな港町の夜だった。
「くそっ、参ったな……」
どうにも落ち着かなくて、とうとう封印していた煙草に手を伸ばすと、火を点ける。久し振りに吸い込んだ紫煙に、むせそうになった。
「げふっ……俺は中房かっての……」
そこで初めて、テーブルに置いたままの携帯電話にメールが着信していることに気付いた。差出人は――吉羅暁彦。
『――メリークリスマス。私からのプレゼントはお気に召しましたか?』
「……んの野郎っ――!」
文面を見た瞬間、金澤はこれが事故などではなく、始めから仕組まれていたものであることを確信する。煙草のフィルターを噛みしめると、発信ボタンを押した。きっちり二コールで、番号の主が出る。
「吉羅、てめーよくもやってくれたな!」
『おや、随分と余裕がありますね。……電話をしているような場合ではないでしょう?』
「今、あいつは風呂だ」
『おやおや、では尚更、お邪魔はできませんね。コンサート、お疲れ様でした。後はどうぞごゆっくり。チェックアウトは十一時ですから、あまり無理をさせすぎないよう気をつけてくださいね』
何故、そこの部分が使役形になるのであろうか。
「違う! それは誤解だ!」