お節介な贈り物
『……他に用がないなら切りますよ』
「ふざけるな! お前、こんなことが許されると、本気で思っているのか!」
噛みつく金澤に対し、電話口で吉羅が短い溜め息をつくのが聞こえた。
『金澤さん……』
「何だよ」
『私のせっかくの好意を踏み捻ると、後が怖いですよ……。言ってる意味、分かりますよね?』
「おい、待てっ、吉羅――!」
電話口に思い切り叫んでみるが、通話は既に切られていた。
「……分かってるさ」
金澤はバックライトの落ちた液晶に向かい呟くと、長くなった煙草の灰を指先で弾いて落とす。それからゆっくりと一口吸って、灰皿に押し付けた。
――吉羅のせいなんかじゃない。
彼に対する怒りは、転じて、不甲斐ない自分への苛立ちだ。
今回の話が持ち上がった時点で、こういった可能性は予見していた。例え別々の部屋だったとしても、遅かれ早かれ、自分の意思で彼女の部屋のドアを叩いていたような気がする。
後はそれを受け入れるか、否か……だ。
「煙草臭いし、酒臭いし、最悪だよな、俺……」
久しく、女性をベッドに誘う台詞を口にしていないことに気付き、金澤は腕を組んで呻る。
しばらく悩んで捻り出した、最低限の体裁をそれっぽく整えた前口上は、バスローブに身を包んだ湯上がりの香穂子を見るなり、理性と共に霧散してしまった。
* * *
微かな違和感で、香穂子は気怠いまどろみから醒めた。
シャンプーの香りに混じって、煙草と汗の香りが辺りに漂っている。
違和感の正体は、素肌に直接触れる糊の利いたシーツの感触と、背中を包む温もりだった。
(私……昨日、先生と……)
香穂子はワンテンポ遅れて自分が全裸であることに気付き、昨晩のことを思い出して顔が熱くなる。
ぎゅっとまぶたを閉じると、規則正しい寝息が聞こえ、柔らかい吐息が裸の肩をくすぐった。
金澤を起こさないように注意を払いながら、身体に回された腕をそっと解いて、温かい腕の中から抜け出す。
「――っ!」
ベッドを滑り降りた瞬間、身体の中心に鈍痛が走って香穂子は顔をしかめた。でも、これはきっと幸せな痛みなのだ。そう思うと胸がいっぱいになって、同時に恥ずかしさがぶり返す。
昨晩、自分の身体に何が起こったのか……途中からはよく覚えていない。
気がついたら、金澤の腕に抱かれて眠っていた。
微かな記憶に残っているのは、昼間、ピアノを奏でていた長い指が、あんなに器用に自分から声を引き出し、痴態をさらけ出させたことと、彼の掠れた声の甘さぐらいなものだ。
「ん……」
腕の中の温もりを失った金澤が、低く呻いて寝返りをうった。解けて乱れた長髪が、ばさりと白いシーツに広がる。
香穂子は床に脱ぎ捨てられたバスローブを羽織ると、そっと彼の寝顔を覗き込んだ。音楽準備室や森の広場で目にする寝顔とは違う、艶っぽさが漂うそれにどきりとする。
目鼻がすっとしていて、睫毛が長い。髭を剃って髪を整えれば結構な美形であるが、これは自分だけの秘密にしておきたいと思った。
「そうだ……」
寝てる間に充電しようと、ナイトテーブルに置いてあったデジカメに手を伸ばす。
ファインダーを覗きシャッターに指を掛けると、ピントを合わせた被写体が、ぱちりと目を開けた。
「あっ……」
「……こら、お前さん、今、何をしようとした」
「え、ちょっと先生の寝顔を撮ろうと……」
素早く手首を掴まれて、カメラごと、そのままベッドに引きずり込まれる。ダメですか、と問い掛けた香穂子の唇はすぐに塞がれてしまった。
「んっ……」
甘いキスに身体が火照る。
「香穂子……おはよう」
「お、おはようございます」
金澤はのぼせ顔の香穂子を抱き締めたまま、取り上げたデジカメのレンズを自分の方に向けて構えた。
「ふぇっ……なにするんですか?」
「いいから……ほれ、笑え」
顔を寄せて、シャッターを切る。
「ちょっと、先生、これ……」
液晶画面には、寝起きの金澤と香穂子が映っていた。
肩の下までしか写っていないとはいえ、これがベッドの中だということは、ありありと分かる。艶っぽい表情といい、香穂子の白い肌に刻まれた鬱血の痕といい、何処から見ても情事の証拠写真以外の何物でもない。
「ああ、もう『先生』に戻っちまったか……いいじゃないか。どうせ俺たちは写真を撮るより、ずっとすごいことしちまったんだ。今更だよ」
少し残念そうな顔をした金澤は、そう言いながらカメラのボタンを操作して、編集メニューを開く。
「でもまあ、借り物だし、やっぱり消さないとダメだな」
消去の確認メッセージに確定を押しかけた指を、香穂子が慌てて止めた。
「待ってください! 空港でプリントしてもいいですか?」
少し困ったような、それでいて優しさを含んだ琥珀色の瞳が、香穂子をじっと見据えた。
「……ちゃんと後でデータは消せよ」
こうして初めて撮った記念すべきツーショット写真は、同時に決して他人に見せられない、恥ずかしい証拠写真となった。
「さて、と……」
金澤は電源を切ったデジカメをナイトテーブルに置くと、にやりと笑って香穂子を見た。身の危険を察した香穂子が、身体を引き離すより早く、腰を掴んで胸元に抱き寄せ、バスローブの帯を解く。
「せんせ……だめっ……」
タオル地のローブがはだけて露わになった、鎖骨から首筋のラインに唇を寄せた。
「そんな可愛い声を出されると、また欲しくなっちまうだろ」
「でも、朝市……行かないと……」
「腹空かせたほうが、イクラ丼も美味いぞ」
「そんなぁ……」
自分よりも遙かに年上な手練れの恋人に、香穂子が勝てるはずがないのだ。
再び熱っぽく喘ぎ始めた香穂子を組み敷きながら、金澤はヘッドボードの時計を一瞥した。大丈夫、まだ時間はある。
それから、吉羅の嫌がる顔を想像して、朝市に行ったら一番大きいタラバガニを送りつけてやろうと、心に誓った。
(了)