お節介な贈り物
5
「あーこりゃ、止みそうにないなぁ……」
灰色の雪雲に覆われた空を見上げて、金澤は呟いた。
時刻的には間もなく日没のはずであるが、厚い雲に遮られた太陽がどの辺にあるのか、よく分からない。
「また、降り出しちゃいましたね……」
先にタクシーを降りた香穂子も、つられてどんよりとした空を見上げる。赤レンガ倉庫群を出る頃には止んでいた雪が、再び降り出していた。
「今日みたいな天気で、函館山からの夜景って見えるもんですかね?」
料金メータを一瞥した金澤が、運転手に千円札を差し出しながら言う。
「さあ、どうでしょうね……でも、下で降っていても、上に行けば、案外見えるもんですよ。特に今の時期は天気も小刻みに変わりますし、まずは、行ってみることをお勧めしますね」
「そうだよな……せっかく来たんだし、行ってみるしかないか……」
金澤は受け取った釣り銭をコートのポケットに押し込むと、当然のように香穂子の手首を攫い、ロープウェイの駅に向かって歩き出した。
「――さて、ここでヒノカホコさんに質問です。冬の北海道に傘は必要でしょうか?」
山頂へと向かうロープウェイを待っている間、そんなことを金澤は訊ねた。
展望台のある函館山の山頂には、冬期はロープウェイでしか移動できない。
今日はクリスマスということもあって、カップルがやたらと目に付く。自分たちもそのうちの一組なのだと思うと、香穂子は自然に笑みがこぼれそうになった。
「……そう言えば、誰も傘を差していませんでしたね」
外は粉雪がちらついているにもかかわらず、傘を持っている人間は見当たらない。思い起こせば、昼間だってそうだ。降りしきる雪の中を、皆、傘を差さずに平然と歩いていた。
「北海道の人って、傘を使わないんですか?」
「街中で傘を差しているヤツがいるとしたら、そいつはまず、観光客と思って間違いないだろうな」
「どうしてですか?」
「俺に訊くなっての。雨じゃないから、別に気にならないんじゃないか」
「確かにこっちの雪ってさらさらしてますよね……だからかなぁ……」
「かもな」
湿気の少ない雪は、コートについても軽くはたくだけで簡単に落ちる。
「さすがは北海道。雪がたくさんありますね」
金澤を見上げた香穂子が、嬉しそうに笑った。
「まさか……お前さん、雪だるまを作りたい。なーんて言い出さないだろうな」
あどけない笑顔に何かを感じたのだろう。金澤は眉を顰めて口を尖らせた。
「ダメですか? じゃあ、かまくら」
「俺はパス。作りたいなら、ひとりでやってくれ……お前さんには、もう少しオトナのデェトってものを教えてやらんといかんなあ」
「それは先生が、教えてくれるんですよね?」
強請るような香穂子の目線を受けて、照れ隠しに頭をかいた金澤が、雲に覆われた山頂付近を仰ぎ見る。
「……日本一の夜景、見れるといいな」
「あ、誤魔化した」
――それから数分後、二人はタクシーの運転手の読みが正しかったことを知る。
「うわぁ……」
標高三百三十三メートルで香穂子を出迎えた景観は「絵葉書を切り抜いた光景」と呼ぶのがふさわしかった。
先程まで降っていた雪は嘘のように止んで、薄闇に覆われ始めた函館の市街をはっきりと見渡すことができる。
函館の夜景は、香港、ナポリと並ぶ、世界三大夜景に挙げられると言うが、目の前に広がるこの光景を見れば、それが決して誇張表現ではないことに誰もが納得するであろう。
陸繋島特有のくびれた形をした市街に輝く街灯りと、漆黒の湾のコントラストが織り成す夜景は、見る者の言葉を失うほどに美しい。
屋内に設けられた展望室は、大勢の観光客でひしめき合っていた。
その人込みに半ば潰されるようにして、ガラス越しに広がった、函館の夜景に圧倒される香穂子の肩を、金澤がぽんと叩く。
「先生……?」
「ちょいと寒いが、外に出てみないか?」
そう言うと、無精髭の生える顎で、屋上展望台への階段を指した。
夜景が一番美しいのは真冬である。大気中の不純物が少ない冬は、空気に透明感が出るからだ。
「そこ、凍っているぞ。足元に注意しろ」
先に出た金澤の手を借りて、香穂子もドアの外に足を踏み出した。踏み固められた雪が、いたるところでアイスバーンになっており、注意しないと足を滑らせてしまう。
「人、いませんね……」
世界的な夜景の名所とはいえ、真冬に屋外の展望台に出る人間は少ない。
望遠カメラに大型の三脚――本格的な防寒具に身を包んで写真撮影に励む男性が、展望台の端の方に数名いるだけで、自分たち以外の観光客の姿を確認することは叶わなかった。おそらく気温は氷点下。尖った冷気が肌をちくちくと切り刻んでゆく。
「本当に綺麗……」
展望台の柵に肘を突いて、香穂子は感嘆の声をあげた。
「ガラス越しに見るよりも、こっちの方がずっといいだろ。あんまり長くはいられないけどな」
眼下に広がる、幻想的で神秘的な光景に見とれる。
吐き出す息は真っ白になって、裏手から吹く冷たい風に流される。街の輝きはまるで宝石箱のようだ。
「初めて見たときは、俺も感動したっけな……」
後ろに立って、しみじみと呟いた金澤の言葉に、香穂子は苦い思いが胸に込み上げるのを感じて、唇を噛みしめる。
「なんだ、その仏頂面は?」
「……何でも……ないです」
――金澤が初めて一緒にこの夜景を見た相手は、どんな人だったのだろうか……?
過ぎ去ったどうにもならないことに対して、嫉妬してしまう自分の幼さが、時々嫌になる。
「今、お前さんが何を考えてるか、当ててやろうか?」
「当てなくていいです……」
「いや、当ててやる。俺がここに来たのは二度目だ」
やっぱり。という顔をした香穂子の手に、金澤は素早く自分のそれを重ねた。大きな手のひらに包まれて、冷えた指先が温められる。
「――人の話は最後まで聞くべし。俺はな……素晴らしいこの夜景をムサっ苦しい野郎三人で見て、えらく切ない思いをしたんだ」
「男の人……?」
「そうだ。あのとき俺は誓った。今度来るときは、絶対に連れてくる相手を選ぶ! ……ってな」
背中からふわりと優しく抱き締められ、安堵の表情に変わりつつあった香穂子のそれが、驚きの色で満ちた。
「だから、お前に見せたかった……一緒に見たかった」
「せんせ……」
開き掛けた唇を指で押さえられる。
「紘人。今だけは、名前で呼んでいいぞ」
耳元で囁かれる、少し掠れた甘い声に香穂子の背筋がぞくりと震えた。
「ひろと……さん」
たどたどしく声に出すと、金澤は白い項に甘えるように顔を埋めてくる。掛かった吐息がくすぐったくて、香穂子は身体を捩った。
「ちょっと……」
「……大丈夫だ。ここには、俺たちのことを知っている人間は誰もいない」
「でもっ……」
抱擁が強まる。全身で金澤の体温と呼吸を感じ、香穂子は顔を真っ赤にして狼狽えた。氷点下の寒さなど、とうに吹き飛んでしまったようだ。
「みんな夜景に夢中だ。俺たちが何をしてるかなんて、誰も気にしないさ……」