恋愛終着駅
* * *
「はぁ……」
あと一歩の勇気が出ない。
週が明けてから、大学の授業を終えた香穂子は、連日のように高等部へと足を運んでいた。
放課後を迎えた校内は、多くの生徒でにぎわっている。
楽器を持った生徒の姿がやたらと目立つのが、音楽科を併設する星奏学院らしい。半年前まであの中に混じっていた香穂子であるが、それが遠い昔のことのように思えた。
(ダメだな、私……)
散々悩んだ末に、目的の音楽準備室に行く決心がつかず、特別教室棟の前で踵を返す。
「ん……」
正門広場の妖精像の前を香穂子が横切った瞬間、目の前に金色の光が揺らめいた。「出現」の予兆である。
立ち止まった香穂子が、溢れる光の眩しさに目を細めると、収束した光の中心から、妖精が姿を現す。
「……日野香穂子、久し振りなのだ!」
「こんにちは、リリ。元気そうだね」
「久し振りに人間と話すことができて、嬉しいのだ!」
学院に祝福を与える音楽の妖精たちは、姿隠しの魔法を使っており、誰にでも見えるわけではない。香穂子は姿隠しの魔法の効かない、数少ない例外であった。
「吉羅暁彦は吾輩が見えているはずなのに、露骨に無視するのだ。まったくいけ好かない男なのだ!」
学院創設者の直系にあたる現理事長をけなすと、アーモンド型の瞳が、意味深に細められる。
「金澤紘人は、ちゃんと優しくしてくれているのか?」
「や、やだっ……」
香穂子の頬にぽっと朱がさした。
「恥ずかしがることはないのだ。お前たちは栄誉ある、ヴァイオリンロマンスのカップルなのだぞ……おや? 随分と浮かない顔をしているな。どうかしたのか?」
「ううん、なんでもないよ、リリ」
ヴァイオリン・ロマンスで結ばれたカップルはその後、どうなったのだろうか……? そんな疑問が思い浮かんだが、口に出して問う勇気はなかった。
「イバラ道を見事に乗り越えたお前たちだ。その絆は浅くないと吾輩は信じているぞ」
「有り難う、リリ。……やっぱり私、先生と話してみるね」
三度目の正直という諺がある。香穂子は宙を漂う妖精に笑顔で手を振って、今度こそ音楽準備室に向かった。
「うぉっ、香穂……じゃなくて、日野?」
デスクにかじりついた金澤は、予期せぬ来客の名前を慌てて言い直した。
「へへっ……来ちゃった。白衣を着てる先生を見るの、なんだか久し振りだな」
「悪いが、お前さんの相手をしている時間はないぞー」
そう言って乱雑に散らかったデスクの端に積み上がった書類の山を、無精髭の生えた顎で指す。
「終わるまで待っていてもいい?」
香穂子は返事を待たず、かつては毎日のように座っていた古い応接セットのソファーに腰掛けた。
緩く纏めた長髪の束が掛かる白衣の背中をじっと見つめる。近いはずの距離がとても遠くに感じた。
「先生、私……」
口を開きかけた瞬間、ドアがノックされる。
「ったく……面倒くせーな」
頭をかきながら心底嫌そうにぼやく金澤の横顔は、やはり教師のそれだった。
「悪い、話があるなら後でも構わないか?」
金澤は教師だ。職務を優先するのは当然である。
「いえ、別に急ぎの用事じゃないんで、また今度でいいです。私、帰りますね」
「あ、ああ……済まない」
香穂子は鞄とヴァイオリンケースを掴むとソファーから立ち上がり、フレアスカートの裾を直した。
『……金澤先生、いらっしゃらないんですか?』
ノックと急かすような女生徒の声がドア越しに響く。
「おお、いるぞー。入れや」
香穂子はドアを開けて顔を出した音楽科の生徒に一礼すると、入れ替わるようにして、準備室を出て行った。
* * *
「……で、その女の人が誰なのか、金やんにはちゃんと訊いたの?」
空になったアイスティーの氷をストローで手持ち無沙汰にかき混ぜながら、天羽菜美は小さな溜め息をついた。
志す道の違いから、別々の大学に進学した香穂子と天羽ではあるが、何かにつけて、頻繁に顔を合わせていた。お互い、自宅から通える大学を選んだことが、その理由のひとつになるのかもしれない。
「まさか。訊けるわけないよ……もし、本当に浮気だったら、私、立ち直れないもん。ううん、浮気じゃなくて、本気なのかも……」
近頃の話題は、香穂子による「相談」という名目の惚気話が大半を占めていた。
「金やんが浮気……ねぇ」
ジャーナリスト志望で、ゴシップには目のない天羽であるが、昔から金澤とのことに関しては、茶化すことなく真摯な態度で話を聞いてくれる。
そんな彼女に感謝し、申し訳ないとは思いながらも、つい、優しさに甘えてしまう香穂子であった。
「私、重たかったのかな……気付かないうちに、先生を束縛していたのかな……」
「あんたたちさ、付き合ってどのくらいになるんだっけ?」
「……今月末でちょうど半年」
「そっか……半年か……」
天羽が表情を曇らせる。それを見た香穂子の頭に「倦怠期」という単語が、ほんの一瞬よぎった。
交際を始めて最初の山は三ヶ月。その次が半年……恋愛に対する幻想が薄れて現実を知る頃合いで、俗に破局を迎えやすいスパンだと、何かの雑誌で読んだ記憶がある。
「他に何か変わったことはある?」
「先生に? ……先月の終わりに法事で実家に帰ったんだけど、戻ってきてから様子がおかしいんだ。妙によそよそしいっていうか、露骨に避けられるっていうか……」
香穂子の言葉に、天羽は腕を組んで呻った。
「地元で昔付き合ってた幼馴染みと再会して、すっかり意気投合しちゃった――とか? それ、ちょっとベタすぎるって! 安っぽいドラマじゃあるまいし……」
「でも、先生がおかしくなったのって、帰省してからだもん。やっぱり向こうで何かがあったんだよ。あの人がそうなのかも! 菜美、私、どうしよう……」
激しく動揺する香穂子を見て、今度は天羽が青くなる番だった。
「ちょっ……落ち着いて! あの金やんに限ってそれはないと思うよ。香穂子の考えすぎだってば!」
「そ、そうかな……」
「そうだよ。ここで憶測ばかりしてても仕方がないでしょう? 本人にはっきり訊いた方がいいって……どうせただの知り合いに決まってるんだからさ」
「…………」
香穂子は唇を噛みしめて俯く。
思い切って確認してみようと、何度も学院に足を運んだ。
リリに背中を押されてようやく昨日、音楽準備室の金澤の元を訪ねたが、曖昧な世間話をしただけで、とうとう女性については一言も触れられなかった。
「……ねえ、香穂子?」
「菜美の言いたいことは分かってるよ。でも……」
――怖い。
下手に勘ぐったことがきっかけとなって、金澤との関係に亀裂が入る方が、よほど怖かった。
もしも、自分の世界から金澤の存在が消えてしまったら……想像するだけで、気が狂いそうだった。
生涯一度と思い込んだ恋を失って絶望し、自棄になったかつての金澤の気持ちを、香穂子は今、初めて理解できたような気がする。
「香穂子……大丈夫?」
天羽が身体を乗り出し、黙り込んだ香穂子の顔を心配そうに覗き込んでいた。テーブルの端に置かれた香穂子の携帯電話が震え、着信を知らせるダイオードが明滅する。
「あ……」