恋愛終着駅
サブディスプレイに表示されている名前を見て、香穂子は短く息を呑んだ。「先生……」
「噂をすれば何とやら、ってやつだね。早く出なよ」
香穂子はこくりと頷き、震える指で通話ボタンを押した。
「も、もしもし……」
『おう。今、ちょっと大丈夫か?』
電話越しの金澤の声は、幾分緊張しているように思える。ついあらぬことを考えてしまい、香穂子の心臓は激しく脈打った。
「は、はい……大丈夫です」
『お前さん、今、何処にいる?』
「駅前のカフェですけど……」
『そうか。済まないが、少し時間を取れないか?』
「え、これからですか……?」
電話を耳に当てたまま、香穂子は思わず天羽の顔を仰ぎ見る。彼女は拳を振り上げて「行け」と言っていた。
「分かりました……」
『おー助かった。お前さんにちょいと大事な話があるんだ。そうだな、そこからなら……』
待ち合わせの場所と時間を伝える金澤の声に、相槌を打ちながらも、先日見掛けた女性の影が頭から離れない。
「……じゃあ、駅前で」
三十分後、金澤と駅前の噴水広場で落ち合う約束をすると電話を切った。
「――どうしよう、菜美……別れ話かも……」
バックライトの落ちた電話を握り締めて、香穂子は今にも泣きそうな表情で漏らした。
「はぁ……? 何でそうなるわけ? そんなことは絶対にないってば!」
「でも、先生、すごく真剣な声だった……」
「大丈夫だって。ね、駅まで一緒に行ってあげるから」
天羽は席を立つと、香穂子の傍らに回り込み、震える彼女の両手を握り締めて、優しく微笑んだ。
「やっほ、金やん。久し振り!」
尻込みする香穂子の腕を言葉通りに引っ張り、天羽が空いた方の手を振り上げた。
「天羽? ……ああ、そうか。お前さんたち一緒だったのか。天羽、今日は悪いんだが……」
恋人の親友を視界に捉えた金澤が、困惑の色を浮かべる。天羽はそれに気付かないふりをして、精一杯の明るい声で先手を打った。
「はいはい。私はただの見送りですよーだ。邪魔者はすぐに消えますから、ご安心あれ」
「ああ、悪いな」
天羽の影に隠れるように立っていた香穂子が、金澤の表情を盗み見る。
「おい、香穂子……」
「……っ」
香穂子は金澤の視線を受け止めて、露骨に顔を背けた。
「金やん……ちょっと……」
天羽は金澤の腕をぐいと引っ張ると、香穂子から数歩離れた場所に無理矢理連れ出す。
「ってて……おい……?」
「香穂子を泣かせたら、私、絶対に許さないからね」
「は? 藪から棒になんだよ……若人が揃って年寄りを虐めて楽しいか?」
眉間に皺を寄せてぼやく金澤を見て、天羽は険しい表情をふっと弛めた。
「ふふっ……その顔見たら、安心した。私は別に心配してないけど、あの子、一旦自分で『こう』って思い込んだら中々覆らないからね。男の甲斐性、しっかり見せてよ」
そう言って金澤の腕を放すと、少し丸まった背中を手のひらでばんと叩く。
「――あたっ!」
「じゃ、私は行くから! 後はごゆっくり」
「あっ、菜美……?」
天羽は振り向きざまに香穂子を見ると、挨拶代わりに大きく手を振って、駅に向かって走り去ってしまった。
金澤に手を引かれ、香穂子が連れて行かれた先は、裏通りの喫茶店だった。デートの途中で何回か訪れたことのある、紅茶とシフォンケーキの美味しい店だ。
さして広くない店内は、満席に近い状態であった。ふたりはちょうど空いたばかりと見える、奥のテーブル席に案内される。
「何にする?」
「……何も要りません」
金澤は唇を真一文字に結んだ香穂子を一瞥し、困ったような顔をして、店員を呼ぶと、アイスコーヒーとアイスティーを頼んだ。
「おい、香穂子」
向かいに座る金澤が呼びかける。が、香穂子は俯いたまま、コースターを凝視していた。
「お前さん、今日はどうしたんだ? 変だぞ」
「……先生は大人の女性が好きなんでしょう? だったら私みたいなお子様を相手にしなくたっていいじゃない。無理に付き合ってもらっても、嬉しくなんてないです」
今まで言えなかったのが嘘のように、刺々しい言葉が次々と香穂子の口から溢れ出す。
「いいんです。はっきり言ってください……もう覚悟はできていますから」
「なぁ……何か誤解してないか?」
「誤解? 私は何もしてませんよ。何かしたのは、先生の方じゃないですか! ……部屋に女性を連れ込んでおいてよく言えますね。私が知らないとでも思ったんですか?」
顔を見ずとも、金澤の息を呑む気配が伝わってきた。
「お前……アイツのこと、知ってたのか?」
――アイツだなんて、馴れ馴れしい。
どん、と握り締めた香穂子の拳がテーブルを強く叩く。
「やっぱりそうなんだ――最低っ!」
香穂子はテーブルに両手を突いたまま、勢いよく立ち上がった。反動で椅子が倒れそうになる。
鞄を掴み、テーブルの脇をすり抜けようとした香穂子の手首を金澤が素早く掴んで引き留めた。
「やだっ、離してください!」
「だからそれが誤解だっつーの!」
色濃く漂った修羅場の空気に、近くのテーブルにいた客の視線が一斉に注がれる。
「いやっ、何も聞きたくない!」
香穂子が叫ぶのと、店のドアベルが鳴り響くのは、ほぼ同時だった。
「……と、俺が話すよりも先に本人がお出ましだ」
金澤が肩をすくめて店の入り口を見遣った。
恐る恐る視線を追い掛ければ、店内を見回している女性に辿り着く。服装こそ違うが、先日、金澤のアパートを訪れていた女性に違いなかった。
「おう、こっちだ」
金澤が左手を軽く上げて合図をする。
それに気付いた女性は小さく頷くと、ふたりのテーブルに真っ直ぐ歩み寄ってきた。
「なん……で」
香穂子は思わず唾を飲み込んだ。
「狩野響子――俺の妹」
「へ……?」
いもうと――兄妹。
女性がにっこりと微笑んで会釈した。つられて会釈を返す香穂子の肩に、金澤がぽんと手を置く。
「紹介するよ。彼女が日野香穂子……ほら、この前話した学内音楽コンクールの参加者で、今、付き合っている」
「は……」
金澤の言葉に、香穂子はぽかんと口を開けた。
思えば第三者に「恋人」として紹介されたのは、これが初めてではなかろうか。
舞い上がってしまうほど嬉しいはずなのに、頭の中は霧が掛かったように真っ白で、何も考えられない。
「初めまして。いつも愚兄がお世話になっております」
穏やかな笑顔を浮かべて、もう一度頭を下げた。
「……ぁ、こ、こちらこそお世話になっております」
呆然としていた香穂子は我に返ると、壊れた人形のようにぺこぺことお辞儀を繰り返す。
「……とりあえず、座っても良いかしら?」
「すみません、私、なんて失礼な真似を……」
金澤の隣に座った響子に、香穂子は平謝りした。
「いいのよ。もう気にしないで頂戴。……それにしても私が兄さんの浮気相手? そんなに若く見られるなんて、むしろ光栄だわ」
そう言って微笑むと、左手を香穂子に差し出す。金澤とよく似た形をした薬指には、年季の入った、銀色のリングが嵌っていた。
「これでも小学生と幼稚園生の息子がいるのよ」
「でも……本当に若くてお綺麗です」
「有り難う。素直に嬉しいわ」