いと
その日、泰衡が毛越寺の奥へ向かうと、そこには白龍の神子と銀、それに八葉らが揃っていた。さらに、見るからに汚らしい男が一人。
立ち入りを許可した覚えはない。どこから侵入したのかと眉を寄せながら、見やったのは、明らかに様子のおかしいその男――そう、どうあっても疑うべき人間だった。
銀は、泰衡を受けて、男を斬った。八葉も、また白龍の神子も息を呑んだ。
痛みにもがく男の懐からは、ばらばらと呪詛の種がいくつも出てきた。この男が、平泉のあちらこちらに呪詛を撒いていたのだ。
付き従ってきた武士らに、男を連れて行けと命じると、八葉の一人が、何も斬ることはないと言っているのが耳に入った。不快に眉を寄せ、そちらに視線を投げたとき――目が合ったのは、またしても彼女、白龍の神子だった。
初めて会ったあの日以来、十数日振りに顔を合わせた。
しかし、相変わらずと言うべきか、彼女の視線はやはり、彼を貫こうとする刃の如く、泰衡に注がれる。
そして――既視感。苛立ちが募る心地だ。
「何か?」
訊ねると、神子は目を瞬き、また視線を逸らすのだ。そうして、何かを悔いるような表情で、口にする。
「いえ、何でもないんです……」
答えどおりの様子とも思われなかったが、そうか、と返す。
「では、呪詛の浄化は、あなたに頼もう。――それと、犯人を引き出してくれたことには、礼を言う」
告げて去ろうとしたのだが、はっと顔を上げた彼女は、驚きに目を見開いた。そして再び、泰衡と視線が絡むと、つと下を向く。
はい、と小さな声が応えたのを聞いて、泰衡は、その場を去ることにした。
――やはり、分からぬ女だと言う気持ちが募る。
そして、己の中に度々見出される、奇妙な感覚には、苛立ちが残る。
何より、あの瞳だ。
先だってもそうだった。何か言いたげなのに、決して何も告げようとはしない。だが、確実に、あの目は何かを訴えかけてきている。それが、分からないと言うこともまた、釈然としない気分だ。
激しい違和感と、何かが胃の腑にわだかまるような感覚。
それは何かと自問しても、己の中に答えはないように思われる。
(白龍の神子だ……)
彼女に訊ねなければ、おそらく見えぬことだ。
しかし、それはおそらくできない。何しろ、何を訊ねたら良いのか、どんな言葉を用いるべきなのか、彼にも不明瞭なのだ。
何が言いたいのか訊ねても、何もないと言われればそれまでだ。彼の中に募る苛立ちや既視感について訊ねようと、彼女が知るわけはない。そのようなことに時をかけてどうする。すべきことは山積みだ。――この奥州と、そして、友を守り抜くためには。
全ての呪詛が解放された、と銀の報告を受けたのは、夕暮れ。
それをきっかけにする、というつもりだったわけではない。だが、今だと思ったのは確かだ。
守るべきものと、目指すべきものがある。そのためには、どうあっても、必要なことなのだから。
躊躇いなど、一切ない。
泰衡は、銀を伴い、伽羅御所の奥へと向かった。
刃を、弾かれた。
なに、と泰衡は眉を寄せる。
父である人――御館、と呼ばれ人の信を得ている男、秀衡は佩いていた刀をひらりと抜いて、己を襲う凶刃を押し止めたのだ。それも、一撃をその肩に負ったというのに。
にやりと、秀衡は笑った。
銀も無表情の目元に、僅かな驚嘆を見せている。
秀衡の刀と、銀の刃とが、擦れるように、互いを押し合う。互いに、拮抗する力だ。老いた父のどこにそれほどの力が残されていたか。意志だけでなく、未だその身も強靭なのだ。
「そうまでして、家督が欲しいか、泰衡?」
笑みを浮かべる唇から、問いを発する父は、どこか面白がっているようだった。殺されようとしているというのに。それも、血を分けた我が子に。
「ええ。その地位をもって、私は、奥州を守らねばなりません」
「わしのやり方では、ならぬと申すか」
「今、鎌倉からやってくるのは、人だけではない。我らは、神を敵に回しているのです」
どれほどの被害が出るのか、まだ知れない。だが、父のやり方では、ただでも覚悟せねばならない被害が、大きくなることは目に見えている。神を滅するためには、犠牲が必要となる。しかし、父のやり方よりはおそらく、少なくて済むはずなのだ。
ぎり、と刃と刃が我慢しきれぬように唸っていた。
「――よかろう」
秀衡の言葉に、泰衡は目を瞠った。
「今、何と?」
「そなたに、奥州藤原の家督を譲ると申したのだ」
確かに、そう言った。
驚愕をやり過ごし、銀に、もういい、と告げれば、彼もまた素直に刃を納めた。ふ、と秀衡は安堵したように息をつき、こちらもまた刀をしまった。
「今のお言葉、真でしょうか?」
「ああ。嘘など申さぬ。……ただ、わしを殺すな、泰衡。わしはそなたのやり方に、口を挟まぬからな」
一層に眉間に皺を深くする我が子を見て、秀衡は苦笑する。
泰衡が、何故これほどあっさりと頷くのか、理解できずにいることを察しているのだ。
「そなたが御曹司と、平泉をどれほど案じているか、わしは知っておる」
「しかし、解せません。御館はあれほど、私がなそうとしていたこと、ご理解くださらなかったと言うのに」
はは、と声を立て、父は笑った。
「今でも理解などしておらぬよ」
「では、何故?」
全くもって分からなかった。
秀衡は、息をつき、その場にゆるりと腰を下ろしながら、実はな、と口火を切る。
「神子殿だ」
「みこ、とは、白龍の神子ですか?」
そうだ、と父は言い、どこか遠くを見つめるように、その視線を御簾が降りて見えぬ庭の方角へと移す。泰衡を見ない目は、何かを思い浮かべているのだろう。
「もしも、そなたがわしに、家督を譲れと刃を向け迫ったなら、そなたの言う通りにして欲しい、と言っていたのだ」
目を見開くどころでは済まない。息を呑み、何を言っているのかと、耳を疑う。
白龍の神子が、泰衡に家督を譲れと、そう告げたと言う。
まだ、ただの二度しか、彼女と直接顔を合わせてなどいない。しかし、彼女はまるで、今この瞬間が訪れることを知っていたようではないか。
「それは、真ですか?」
「嘘は申さぬと言っている。――神子殿は、何もかも知っていらしたのだな」
不思議なものだ、とまるで天を仰ぐように、父は呟く。
――分からない。
泰衡には、何もかもが分からない。
彼女と会うたび、また彼女を思い出すたび、彼女の話を聞くたび、彼の中に膨れ上がる感覚が、一体何なのか。
「それより、泰衡、そろそろ薬師を呼んでくれぬか」
息を僅かに弾ませながら言われ、はたと思い出す。父の肩に、銀は深手を負わせているのだ。
このまま、失血で命を落とされることは、今は得策ではないのかもしれない。いや、そうではない――白龍の神子が、父を殺めるなと言っているような気がしたのだ。
銀に命じ、すぐさま薬師を呼び寄せる。この薬師や家人に、誰にやられたのか訊ねられた父は、泰衡を見ぬままに、源氏の刺客だ、と答えた。
このために、御所全体が騒然となったのは、言うまでもない。