いと
対峙した茶吉尼天を倒したとき、大社の段を上がりきって現れた白龍の神子は、泰衡の姿を見て、――その顔を泣き出しそうに歪めた。
「無事で良かった……」
呟くように零れた言葉に、泰衡は僅かに目を見張っていた。
その拍子に、彼女の瞳からは、ほろりと一粒の涙が落ちていった。そして、その唇に宿るのは、安堵の笑みだ。
「無事さ、討たれるはずもない」
そうですよね、と彼女は答え、そうして、一度地上を見下ろした。茶吉尼天とは別に、武士たちはまだ、戦い続けていることだろう。
彼女の視線が再び泰衡を捕えるように、据えられる。
そう――その瞳、だ。矢のようにまっすぐに、刃のように鋭く、泰衡を貫こうとするかのような、視線を投げられている。
「行くんですね、……人と人との、争いの中に」
「……ああ」
もう驚きはしない。彼女は、その神子としての力で、彼が何をするのか、たとえば未来と呼ばれるものを、知っているのだから。
白龍の神子は、はっきりと告げてきた。
「あなたに龍神の加護があるように――祈ります」
その言葉に、驚嘆せずにはいられなかった。しかし、泰衡はそんな感情を悟られることを疎み、
「ああ――」
心に惑いを抱えたまま、頷き、そして、大社を下っていった。
まだ、全てが終わったわけではない。
この社は、神を滅するために作ったもの。そのために、泰衡は家督を簒奪し、父を殺そうともした。――そして、目的は果たされた。
神と対峙することは終わった。あとは、人の世の戦を終えなければならない。人の力でもって。
泰衡が地上まで降り立つと、銀が彼を待つように、そこにいた。
参られますか、と問われ、彼は頷く。
――この地を守り抜くこと、友を守り通すこと。
成し遂げてみせる。
やがて平泉の有利で、戦は終結した。
後白河院と熊野が、鎌倉と奥州の間に立ち、和議を成すことも叶った。
そして、北の地にも穏やかな温もりを抱く季節が、ゆるりと舞い戻って来たものだ。
泰衡にも、それは感じられた。
龍脈が正しく流れるようになったそうです、というのは、白龍の神子たちに聞いてきた銀の語ったことだ。
なるほど、呪詛も全て解放され、忌まわしき鎌倉の神も今はいない。
平家に捨てられた怨霊とその使い手を飼っていたが、それもまたいつの間にか消えていたのは不可思議であり、また道理でもあるのだろうと思った。南へ逃れた平家に在る怨霊――話によれば清盛入道も怨霊として蘇っていたと言うが――も、この大気に消えていくのかも知れぬ。
そして、和議が成ってから、半月ほど経った頃だった。
「神子様方は、元の世界へお帰りになるとのことです」
銀の報告を受け、なるほどそれも道理だと、泰衡は思った。
しかし、そう思いながら、彼の中には、あの戦以来治まっていた奇妙な既視感に似た、これに伴う苛立ちが頭をもたげた。
そんな折に、やはり銀が託されて、彼にもたらしたのは、一通の文だった。
お世辞にも上手いとは評し難い手蹟により書かれたそれは、白龍の神子からのものだった。
奥州に招き入れたことへの謝辞と、そして、元の世界へ帰るという別れの言葉とが並んでいた。これだけならば、ただ普通に読んで終わらせただけだ。しかし、最後の文言に、泰衡は眉を寄せていた。
――誰に何を言われても、決して見送りには来ないでください。
誰も行こうなどと思っていない。初めから、銀を遣わすつもりでいるのだから。
「……誰に、言われても?」
どこかの誰かが、泰衡にそのようなことを勧めにくると言うのか。
ただの戯言だと流してしまってもいいはずだ。しかし、彼女は常に見抜いてはいなかったか。彼がこの先、何をするのかということを、彼女はなぜか知っていたのだ。父を殺そうとすることまでも。
分からないままだ、何もかも。そう、たとえば、彼女自身のこと。その思考も、感情も。
「行かねば、いいんだろう……」
数日間考えあぐねながらも、己の中でそう決めると、泰衡はこれをもたらした銀を呼びつけて、この文の送り主に花を届けるよう、告げた。この文に書かれた、彼女の言葉に従うと言う、意志を示すために。
***