『ごめんなさい。これが最後の愛し方だったから』
触れるだけで崩れゆくガラスのように脆くても。
大切にしたいモノであることには変わりがなかった。
フランは姉が付けた傷口を労るように舌で舐る。その姿がまるでじゃれついてくる仔犬のようだなと、咲夜は妙な感慨を抱いた。微笑ましくて、思わず笑みが零れてしまう。フランの事がとても愛おしいと思えたのだ。
フランはレミリアに、どうだ、と言いたげに胸を張って見せた。
はいはい解ったわよお熱いことで、とレミリアは手をひらひら振る。
だが、咲夜を手の中に納めることが出来た幸福は長くは続かない。
フランの右手の中に、咲夜の『目』が見えた。フランの歪な翼が光と放っていた。
「――ッ?!」
フランは表情を絶望と驚愕に染め、恐ろしいモノを見るかのような視線を咲夜に送り、踵を返してその場から逃げ出すように駆けだしてしまった。
この幸福は、永遠ではない。
やがては壊れてしまう儚いモノ。
「フランお嬢様?!」
咲夜は去りゆく幼い背中に縋り付こうとするが。
その手も、声も去りゆく彼女には届かない。
二人の間には、救いようがないほどに高くて分厚い壁が聳え立っていた。
「――はぁ……」
フランは自室のベッドに横たわり、行き場のない溜息を吐いた。
こうやって独りで居るには、フランにあてがわれた地下室は広すぎる。
天蓋の付いた豪奢なベッド。咲夜に貰ったクマのぬいぐるみ。鏡のない化粧台。使用頻度の低い燭台。フランの知識の坩堝である背の高い本棚。見た目は塵一つ落ちていない綺麗な部屋だが、ルミノールでも振りまいたら一面に色が付くこと請け合いだ。ここは悪魔が五百年近く幽閉されていた場所だ。自意識が生まれたときからここにいて、孤独という感情すら知らなかった。ただ其処にあるのは、冗長なまでの時間と『退屈』
いざ、落ち着いて部屋に籠もってみるとやはり退屈が襲ってくる。
最近、人と居る時間が長かったためか、独りで居る孤独を知ってしまった。
それだけで、もう以前の暮らしに戻れる自信はないとフランは感じていた。
こうしていると恐ろしいことを考えてしまう。
もし、今眠りに堕ちたとしよう。
もしかしたら次に目を覚ますのは百年後かもしれない。
私は狂っているから、ちょっとした拍子でそんなことが起こらないとも限らない。
そう、吸血鬼の寿命から見れば百年などほんの一夜の夢に過ぎない。
レミリアは寂しかったとフランを出迎えるだろう。
パチュリーも美鈴も今と変わらぬ姿をしていることだろう。
だが、咲夜は……。
人間は弱い生き物だ。ちょっとした拍子ですぐにいなくなってしまう。
フランは妄想を振り払った。今日何度目かの頭痛にこめかみを押さえて頭を振る。額にはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。咲夜がいなくなってしまうのは嫌だ。
『痛み』に涙が滲んだ。シーツを手繰り寄せて顔を埋めた。泣き寝入りなど我ながら情けないこと限りないが。
『あのメイドを、姉から奪い取って自分のモノにしたら満足か?』
「……誰?」
フランは観測できない対象に対して問いかけた。此処には確かに誰もいない。
幻想郷には密室に侵入できる妖怪が存在するが、この強固な結界が施された地下室へとそう容易く不正侵入できるモノだろうか。
『そうだ、あの人間をお前の牙にかければいい』
その時、部屋の片隅で闇が変化した。
それは徐々に質量を持ち、形を変え、顕現する。
夜が流れ出す。噎せ返るような血の香りと共に。
フランは恐怖を感じた。それは、自分に力が備わっているとしても、吸血鬼に備わっている本能的な『恐れ』がその矮躯を竦み上がらせる。それとも、直感的にその闇が何なのかフランは解っていたのかもしれない。
深淵を覗き込んだかのような漆黒は、やがて人間の姿を現した。
華奢な両腕を目一杯に広げ、象った十字架にその身を磔て。
彼女の纏った闇が流動する。まるで黒い華が開花するように。
怜悧な顔立ちの大人びた少女だった。年の頃は大体、咲夜と同じかそれより少し上ぐらいか。あくまでこれは、フランが人間を基準にした見た目からの判断である。幻想郷には齢を幾星霜重ねた童女が掃いて捨てるほどいるからだ。
彼女の筋の通った背中を流れている、まるで金細工のように精細な金髪は、地面に付くか付かないかの所にまで及んでいる。彼女の瞳を填め込んだルビーのようだと表現するには少々誤謬が発生するだろう。彼女の瞳の紅は確かに見事な色彩だが、宝石のそれと比べるのはやはり質が異なる。言うならばそれは『朱』。光を発することなく、逆に飲み込んでしまうような昏い闇の色を孕んでいた。
たわわに実った豊満な胸にフランは顔を埋めたくなる衝動に駆られるが、さすがに今は恐怖が先行して近づくことさえ忌避された。
ほおずきを象った紅いタイを首に巻き、先行き示すは死者の道。
光を知らない純白の肌に、墨色のワンピースのコントラストがよく映える。
それはまるで、天使と悪魔が抱き合い踊っているかのよう。
フランは明確な恐れを抱いて壁際まで迫り下がった。だが、逃げることはしなかった。
喉がひくついて、足が竦んでいた。目が熱病にでも罹ったかのように見開かれ、瞳孔が揺れる。そして視線の先に『彼女』を捉えて止まない。
「Who are you!!」
乾いて縺れた舌に、噛み合わない歯の根。それでもフランは必死に台詞を捻り出した。
ヒステリックに叫ぶように。使い慣れていた筈の日本語も、この一瞬の間は頭から飛んでいた。
『彼女』はフランとは対照的な余裕すら伺える笑みを浮かべたまま、ゆったりと答えた。
『Who am I――?』
とても無邪気な笑顔だった。
「――っ!?」
フランの中で何かがぷちんと切れた。
「ここここここわす壊す壊す壊す壊す!」
まるで壊れた音響機器のように相手の破壊を宣言する。
フランの翼の魔導石が一気呵成に光を増し、構築した呪式を高速演算していく。
『無駄、よしたほうがいい』
金髪の少女はフランの琴線を切ってしまった事にも動じず、ただ手癖の悪い子供をたしなめるかのような仕草で制した。無論、フランの壊れた感情を逆撫でるだけだったが。
『彼女』の『目』を右掌に召喚。握る指に魔力を込める。
「Grip & Brakedown!!」
強く握った拳をトリガーにフランの能力が発露する。
凄まじい魔力が彼女の心臓を握りつぶし、破裂させた。まるで見えない力に操られた人形のように体が胸を突き出す形で反り返り、衝撃で肋骨を初めとした胸部が前方に弾け飛ぶ。胸部からは肉片や大量の血液が堰を切ったかのように吹き出した。人間なら痛みを感じるまもなく逝くことができるが、そうではない妖怪に対しては限りなく無慈悲な破壊。何かを掴もうとして伸ばした手は空を切り、甘い激痛に足が頽れる。驚愕に彩られた瞳は開いたまま、無機質な天井を見上げては、損じられた自分の身体を、削り取られた命を認識する。
「なん……でぇ……」
フランは驚倒した。確かに『彼女』の『目』を潰したはず。
作品名:『ごめんなさい。これが最後の愛し方だったから』 作家名:清明@