『ごめんなさい。これが最後の愛し方だったから』
なのに破壊が訪れたのはフランの肉体だったのだ。
「がぁっ――。がぁ゛ぁ゛ぁ! げ、あ、はぁ!」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
フランは血の息を吐きながら床をのたうち回った。消し飛んだ胸部の空洞に両手を突っ込んで身もだえた。そんなことをしても苦し紛れにもならない事は知っていたが。繋がっていない気道から空気を出し入れする忌々しい肺を掻き毟って潰してしまわなければ気が狂いそうだ。いや、気などとうに狂ってはいるが。
心臓と肋骨どころか、勢い余って気道まで吹き飛ばしてしまったのが悔やまれる。
いつも、自分を壊しては自殺ごっこと評して暇を潰していたが、これはちがう。この痛みは知らない。そもそも、相手を痛めつけて殺すように部位を選んで破壊したのだ。自業自得を身をもって体験した。
フランは床に肩と翼を擦り付け、足を立てたブリッジのような姿勢で疼きを堪えた。右手で悲鳴と血を吹き出す口を覆い、左手はなだらかな腹部へ。腹部を覆っていた洋服の布地を剥ぎ取り、そのメスのように鋭い爪を自らの腹部に突き立てた。そして皮膚と薄い皮下脂肪を抉り取りながら、フランは幾何学的な文様を腹に描いた。それは肉体の再生を速める、回復補助呪式だった。本来なら血で皮膚に文様を書けば事足りる話だが、現状、全身血で汚れていない場所はないので仕方なく己を穿った。
そんな目を覆いたくなるような光景を『彼女』は何の感慨も持たないかのような表情で睥睨していた。その内、飽きて欠伸でも漏らしかねない程である。
見る見る間に弾け飛んだ胸部は再生し、呼吸が落ち着いた。
欠損部位の修復が終わると、自然に腹部に刻んだ呪式も消え、フランは完全に回復した。
これはフランが吸血鬼だからこそできる芸当であり、並の妖怪なら死を回避したとしても数ヶ月から数年は動けまい。
しかし、回復したといっても、それは肉体に限ってのことであり、フランの心の傷はぱっくり開いたままだ。
「なん……、何……何で?!」
フランは気道から未だに込み上げてくる血の混じった空気に噎せ返りながらも、毅然とした光を取り戻した瞳で『彼女』を上目遣いに睨み付けた。
『私は貴女の心を媒介にして顕現している、いわば幻影なんだから、貴女が私の『目』を潰そうとすればこうなるのも道理でしょ。私の『目』は今貴女に在るのだから』
「何者……?」
『磔の聖女。人を喰らう宵闇。二つ名は思い出せる。名乗る名も有る。だけれど、私がこうして此処にいることが知れれば多分に厄介。とりあえず、Φ(ファイ)と名乗っておくよ。フランドール・スカーレット』
恐るべき何かを内包した化物の気配。だが、あくまで物腰は柔らかい少女のものだ。これほど得体の知れないモノが他にあるだろうか。
「Φ(ファイ)……。存在しない、何もない、空集合、虚数」
フランは蓄えた知識の中からそれだけを陳列した。
『今はそれでいい』
ファイは床に伏していたフランに手を差し伸べた。フランはその手を過度に警戒しながら取った。ふらふらと立ち上がると、汚した床を綺麗にすることも、千切れてしまった衣服を正すこともせずにベッドへと倒れ込んだ。
「何をしにきたの。私の心につけ込んで。吸血鬼が悪魔の甘言を真に受けると思う?」
フランは精一杯強がって見せた。口調をカリスマモードのレミリアに似せて。
『そーなのかー』
ファイは満面の笑みを貼り付けたまま小首を傾げて無邪気に問うた。まるでフランの心を見透かしているかの如く。それがたまらなく不気味だった。
『貴女があの人間に対して抱いた感情は、ただの食欲なのではないのか?』
自分の心が壊れ始める音を、フランは初めて聞いた気がした。
「な、そんな筈……」
フランの声には少なからず動揺が含まれていた。それを察したファイは言葉をまくし立てる。
『無いと言い切れるのか? 貴女は自分の感情に理由を見いだしてはいないようだ』
「うるさい……。うるさい、うるさい!」
フランは咲夜を欲していた。その感情に偽りは無い。
『貴女は、その人間に対して食欲を抱いているだけではないのか? その感情を恋という触りの良いモノと勘違いしてるだけではないのか?』
まるで乾いた大地に汚水が染み込んでいくように、その言葉の数々はフランの脳髄に深く浸透していく。
「違う! 違う違う違う!」
だが、どうしても彼女の血肉を欲してしまう、吸血鬼としての自分が存在することも、うすうす解ってはいた。
そのことを心の闇につけ入るファイに指摘された。それだけでフランの不安定な心を揺り動かすには十分だった。
もはや何が本当の自分なのか解らなくなってしまった。
帰る場所を無くして漂う心。
喜怒哀楽のフォーオブアカインド。そんな単純なものでもないけれど。
私の中の。私の中の。私の中の。私の中の。私。
全部が私で。全部違う。こんなの私が望んでいた訳じゃない。
『人間など所詮我らの糧でしかない。何故か? それは彼らが望んだから。彼らが伊達や酔狂で想像した有象無象の畏怖と畏敬。それが集約されて妖怪や幽霊、果てには神までをも創ってしまった。人間は滑稽だな。自ら創造したものにその存在を脅かされ。そうして手に負えなくなったら、またユメマモボロシに返して無かったことにしようとする。一度生まれた恐怖と絶望は取り払うことなどできはしないのに!』
ファイは饒舌に人間と人外を語る。
『貴女はあの人間を喰らいたいと想っているのだろう? なら、何故そうしない!』
ファイはフランに対して非難の声を上げる。
『妖怪はその欲望に従うのが本懐。人を喰らうのが本懐だ。狂っていて何が悪い? 我々は人間に依って、そうなるべくして生まれてきた!』
「それでも! 私は嫌なんだ! もう、壊したくないんだ! 何も傷つけたくないんだ! もう、誰にも嫌われたくないんだ――」
フランは必死に叫ぶ。これだけは声を張り上げて主張できる彼女の真実の感情だった。
『愛した人間を傷つけたくない? そんなの偽善以外のなにものでもないよ。人間と妖怪が結ばれることなど絶対に無いんだ! 愛は結合して生へと向かうモノではない! やがてはバラバラに壊れてしまう不実な営みに過ぎないのだから! もし、本当に『愛』などと言うモノが存在するとするならば証明してみろ! その人間の骨の髄まで啜り尽くし、その総てを喰らって臓腑に納めることだ! そうすれば、そいつはおまえの血肉として永遠に、幻想として生きることができる! 永遠に寄り添うことが叶う! おまえにはそれができる! そう、私には出来なかった事が! なのにおまえは!』
吐き出された感情が部屋の中に充満していく。それは黒よりも闇色な、一片の救いも見いだせない、泥の中のような絶望だった。
フランは違和感に気がつく。もしかしたら、ファイはフランと同じように人間に恋をしたことが在るのだろうか。そして、その想いは結ばれることが無かった。
作品名:『ごめんなさい。これが最後の愛し方だったから』 作家名:清明@