堕落者15
週末に掛かってくると、玄関の壁にある大きな掲示板には、織姫と彦星のペーパークラフトが張られていた。幼稚舎内はどこか慌しく、教諭達は子供達の世話をしながら七夕の準備も進めていた。七月七日は日曜日なので、前日の土曜日には私達も飾り付けに加わる。とは言っても、私達の仕事といえば、短冊に願いを書いて先生に手渡すのみだ。午前中の内に行事は行われる予定で、どうせなら日の暮れた後、空が暗くなり始める頃にでも行えば良いのに、と思うけれど、そもそも毎週土曜日は午前中だけ登舎する日なので、そうはいかない。大人の事情が垣間見え、非常に夢が無い。
そう、やるせなく思うのはどうやら私だけらしい。
「それにしても、日曜日は晴れるらしいぞ。このつゆのじきに幸運じゃないか。本来の七夕は秋ごろなのだから、昔のならわしどおりにやれば天気の心配もしなくてすむのにね」
と、跡部なんかは調べてすらいる。
「跡部って物知りだね」
「まあね、とうぜんだぞ」
果たして、まだ四歳にも満たない年で、旧暦の存在を知っている子供は何人いるのだろう。
子供達は皆、浮ついている様子だった。どんな願い事を書くのかと、話し合っている所も見かけた。私といえば、何を書こうか困っている。この体の年ではどういった事を書けば妥当なのだろう、と私の頭を悩ますのはその点だけだった。遠い昔を参考にしようとするが、何分記憶に残っていない。他の子がアニメや特撮のキャラクターになりたいと書いていたのは思い出せるが、自分は何を書いただろう。
「りんごになりたい、だ」
「りんごぉ?」
「ああ」
鈴に聞いてみたら、思いもしない返事が返ってきた。
「なんでりんご?」
「その頃のあなたはりんごが好きだったからだ」
実に安直な理由だったらしい。幼稚園児らしくはあるかもしれない。
「人間から果物って、どんな進化だ?」
「進化でも退化でも無く、変化だろう」
と、鈴には冷静にそう言い返された。
今の自分ともなれば、昔の自分の意見を採用する事は出来なかった。周りの人間が気にしなくても、私が恥じる。
「はい、この紙に願いを書いてね」
当日、教室について皆での挨拶も終わると、一人ひとりに短冊が配られる。左手で受け取ると、すぐに机に向かって紙を置き、用意されていたサインペンを手に取って、なんとか両手でキャップを開ける。平仮名で書くことを心がけながら、幼児にとっては素朴だろう願いを書くことにした。
「えをかくしごとにつけますように」
「うぎゃ」
「何だい、へんな声出して」
私は驚くあまり、読まれてしまったというのに、咄嗟に紙を後ろに隠す。人に読み上げられる程の願いでは無かったのだ。
「君、えをかくのすきだから、いいんじゃないかい」
訝しげながらも跡部は言った。
「跡部は何にしたの」
言って、私はある事に気付く。
「あれ、跡部、紙貰ったの?」
「もう出したのさ」
「早っ」
さては、それで私の短冊を読み上げたのか。
「何書いたの」
「へへへ、ないしょだぞ、君には」
「ひどいじゃん」
問い詰められるとでも思ったのか、跡部は走って教室を出て行ってしまった。きっと、むーちゃんのところへ行ったに違いない。私は自分の名前を書き終え短冊を先生に手渡すと、二人でいるだろう、むーちゃんの教室に向かう。
教室に入ってすぐ、やはり跡部たちはいた。私に気付くと、何やら二人で楽しそうに笑っている。
「むーちゃん。むーちゃんはなんて願い事にしたの」
むーちゃんの口を跡部は塞ぐ。
「だめだめ、言ったらだめなんだぞ」
跡部がそう言うと、あろう事か、樺地は頷いた。これでは、無理強いする事も出来ない。二人だけの秘密とは、どれだけ私に知られたくないのだろう。
もしかして私は、今まで調子に乗りすぎていたのだろうか。そんな考えが、私の頭を通り過ぎた。私は今まで三人で遊んでいたつもりだったけれど、もしかして、二人と一人だったのか。
けれど二人は無邪気に笑うので、馬鹿馬鹿しい考えだったと思い直し、ため息を吐いて、その場を流す事にした。
帰りまで、二人は願いを私に教えなかった。二人の迎えは鈴より早く来ていて、先に帰って行ってしまった。けれどこれで、悠々と二人の願いを探せるというものだ。
私は鈴を連れ、笹の飾られる場へ見に行った。まるで笹林のようになっていて、小さな背の私にとって壮観だった。それぞれ笹は飾り付けられ、高く上った日の光を浴びて、色鮮やかだ。我が子を迎えに来た親達は、子供と一緒に、それらを見て回っている。私と鈴も、傍から見ればそういった親子の一組だろう。
クラス毎に笹は一本だ。親のためなのか、笹の横にはそれぞれクラスの名が書かれた立て札がある。一つ一つ短冊を見ていけば、すぐに見つかる。私の目があれば、高いところに掲げられた願いでさも見つけられるだろう。日はじりじりと私の頭を焦がしている。私には意地があったので、鈴には教えて貰わずに、自分の目で探していた。そして、見つけてしまった。
「おはよう、りん!」
来週の月曜日。私の腕の骨が治ってからというもの、玄関でのお出迎えは無くなったと思っていたが、幼稚舎に着けば、二人揃って待ち構えていた。
「おはよう跡部、むーちゃん」
「りんのお父さまもおはようございます」
「ああ、おはよう。今日も凜をよろしくな」
「はい」
鈴は、骨を折ってから恒例となっていた挨拶をすると、私の頭を一撫でして去った。
「りん、七夕はどうだったかい?」
彼が私に何を言って欲しいかは分かっていた。
「跡部とむーちゃんの願いが気になってましたよ、意地悪するから」
「きいたかかばじ。いじわるさくせん、みごと成功したぞ」
跡部は両手を挙げて喜んだ。むーちゃんもそれを真似している。私は大人しく二人の様子を眺めていた。
「僕らの願い、知りたいかい?」
したり顔で微笑む跡部。あれぐらいの出来事に作戦名まで付けてしまった彼。隣にむーちゃんを従えて、その作戦を遂行したところで、意地悪作戦という名なのなら、その名はどうやら名づけ間違いだ。
「うん、知りたい知りたい」
「仕方がないな、おしえてあげるぞ」
一度でも、あの馬鹿馬鹿しい考えが思い浮かんでしまった自分が、情けなかった。彼らの願いを探していた時、馬鹿らしい推理もした。私に隠す事ならば、もしかして私に関連する事だろうと思い、私の未だ自由に動かない腕の事を書いてくれているのだと推理した。そんな推理は、彼らを前にすれば、ちっぽけな自惚れでしかなかった。
跡部とむーちゃんは、声を揃えて言う。
「いつも三人いっしょでいられますように」
二人は屈託の無い笑みを浮かべた。
頭を焦がし、日の照った、一昨日の出来事がこの身に再現される。そんな私に、二人は駆け寄って来る。私の顔を覗いて跡部は言った。
「目にゴミでも入ったのかい」
掛けられた言葉に、私はひたすら頷いた。
私はあの日も泣いたのだ。鈴だけでは無く、この子達も驚かせてしまった。