花と桃と紺碧
見慣れない天井が見える。
左近がぼんやりと見上げたその視界に見た目だけは若い仙人の顔が映る。
「おお、目が覚めたか」
「………」
「…左近?…おい左近、大丈夫か?」
「……大丈夫に見えるんですか、これが…」
庵の床に寝そべったまま、自分の頭は胡座を掻いた伏犠の膝の上にある。
事が済んだ後、意識を失っている間に身も清められ着慣れないゆったりとした衣を着せられ、疲労と体を動かす度に生じる鈍い痛み以外に行為の名残はなく。
視線を巡らせれば、壁一面分ぶち抜きの框の向こうに澄み渡った空と地平まで続く花の園が見える。
美しいがまず地上では見られない光景に改めて異界に来てしまったのだなとぼんやりと思う。
ここに着いてからのことを思い出そうとしても最早いつ事に及んでどれほど時間が経ったのかもわからない。
「…どのぐらいです?」
「まあ、丸二日は経っとるのう」
そんなにか。
盛大に溜息を吐いた後に、わざと曖昧にした問いの意図を正確に読んでみせた相手を見上げる。
やっぱり、何もかもお見通し、か。
恐らく共にあの異界を駆けていた間も、己の言葉を意図を意志を、この男は誰よりも理解していたのだろう。
そのような素振りを一切見せることもなく。
「ん?どうかしたか?」
見上げた視線の先にはあの頃と変わらぬ笑顔があり、だがその眸はあの頃より随分と穏やかに見える。
「…珍しくわかりやすい顔してるじゃないですか」
「そうか?」
言われてはじめて気がついたと、少しばかり困った顔で顎髭に指をあてる伏犠の表情を見上げ、左近は改めてこの仙人のことを何もわかっていなかったのだなと思う。
伏犠は伏犠で、こうした状況でそうして目を合わせても目を逸らさずに見返してくる左近が珍しく、思わずしげしげとその顔を眺めてしまう。
「…なんです?」
問いかける左近の目元が微かに和らいだ気がして、伏犠は目を瞬かせる。
「…まったく。敵わんのう…」
言葉と反対に楽しげに言って左近の髪に触れる伏犠の手に左近はやめてくださいよと言葉だけにするだけで抗いはせず。
「……呆れて言葉も出んな」
唐突に開けた一面からかけられた声に左近と伏犠が揃って視線を向ければ、腕を組んで嫌悪感も顕に仁王立ちする女カの姿があった。
「…あー、女カさん。お久しぶりですねぇ。お見苦しい格好ですみません」
動くのも億劫ではあったが、美女の前でだらしない格好をするのは左近の性分が許さない。
よいしょ、と体を起こす左近をさり気なく片手で支えてやりながら伏犠は上機嫌に女カにを見上げ。
「おお、女カ。どうした?」
「忌々しい男だな。昨日は私が近づけぬ程禍々しい気が辺りを取り巻いていたと思えば…そういうことか」
「おお、心配させたか。そりゃあすまんかったのう」
座るのも難儀な様子の左近に、これを食べるが良い、とどこからともなく取り出した桃を渡す伏犠の目にはおよそ左近しか入っていないことは容易に見て取れて女カは舌打ちせんばかりに忌々しげな顔になる。
「その『何百年ぶりかにすっきりした』という顔が腹立たしいな、伏犠」
「そこは許せ。あれほど本気になったのは仙界に来て以来じゃ」
「誇るな戯け」
額に青筋を浮かべんばかりの女カの苛立ちオーラと今にも周囲に花が咲きそうな伏犠の幸福オーラとの間でいたたまれなくなり、左近は受け取った桃を剥いて食べる振りで素知らぬふりを決め込み。
「…まあ、お前が立ち直ったのはいいとしよう。それよりもこの人間だ。どうするつもりだ?」
「どうしようかのう。わしとしては暫く手離したくないんじゃが」
「馬鹿を言うな。あまり長時間ここに留めては人の輪廻から外れてしまう」
桃にかぶりついたまま、左近はちらりと視線を上げて女カを見る。
…口も態度も尊大だが、どうやら自分の事を案じてくれているようだ。
少しだけ、残してきた主を思い出す。
「とはいってものう…もう仙桃も食わせてしもうた。少なくともあと300年は帰れんぞ?」
ぼんやりと伏犠の言葉を聞きながら桃を食べていた左近はなるほど、と一度聞き逃した後、己の手にした桃をまじまじと見つめ。
「……桃?…って…えっ?」
「…………おい伏犠、まさか何も説明せずに食わせたのか!?」
「久方ぶりの本気を出したと言うたじゃろ。何か食わせねば左近が死んでしまうわい」
「ちょっと待ってくださいよ伏犠さん…昨日のアレって」
「おう。美味かったじゃろ?」
疲労と快楽で朦朧とした中で時折甘い何かを与えられ、促されるままに啜っていたのは朧げながらに覚えていたが、左近は正直忘れたかった。
「もしかしてこれ食べたらなんかマズいものだったんです!?」
「仙界の食べ物を食えば仙界の住人になってしまうでのう」
「そういう事は先に言ってくださいよ…!」
「おかしなやつじゃのう。そもそも仙界に来る時点で人としての生は終わっておるだろうに」
「…いや、そりゃあ確かに戻れるとは思ってませんでしたがね…こういう騙し打ちみたいなのはちょっと…」
伏犠の言葉を唖然と聞いていた女カはハッと気がついたように伏犠に詰め寄ってその襟元を掴み上げる。
「…まて伏犠。そういえばお前………。そうか、おかしい筈だ。何故人が解仙もせずに仙界に来れる!?さてはお前…お前この男に飲ませたな!?」
「わしは強制はしとらんよ?」
「そういう問題じゃない!!!」
いけしゃあしゃあと言う伏犠に女カは苛立ちを抑えきれずに掴み上げた首をがくがくと揺らし。
「…飲ませた、って…」
話の論点に思い至るにあたり、左近の手から桃が転げ落ちる。
その音に女カが左近を見、その目があまりに憐れみにあふれていたのを直視できずに視線を逸らし。
「すいませんね…そんな目で見ないでもらえませんか…っていうか伏犠さんあんた…」
「まあ、わしは仙人じゃからのう?主食は仙界の食い物じゃ。…つまりは、そういうことじゃな」
「…今日という今日は本気でお前に呆れたぞ、伏犠。そのような卑劣な手を使ってまで」
「待て待て待て。誤解しとるようじゃが、わしはあくまで種を植えたまでのこと」
「種って言い方よしてもらえませんかね…」
「飲むのも注ぐのもここに来るのも、わしは何一つ強制はしとらんぞ?」
「ちょっと黙ってて貰えないですか伏犠さん…っ!」
生き恥だ、と左近は頭を抱える。
この調子ではどこまで暴露されるかわかったものではない。
何より、自分が一念発起してこの男に逢いに来たその事実が最早生き恥以外の何物でもないと思い始めていた。
「…やっぱり人界に戻るってのは」
「無理じゃな。もう遅い」
一度は顔を上げた左近だったが放たれた最後通告に再び頭を抱え。
「……俺はものの見事にあんたにしてやられたって奴ですか…」
かぐやに頼んで仙界に行く前の自分を殴ってでも止めてやりたいと頭を抱えたままぶつぶつと呟く。
「嬉しかったわ」
「…」
「他の者より仙界に通じやすい身になっているとは言え、お主がここに来ようと思わねば何の意味もない。それに通じやすいと言うても常人ならば五回ほど死ぬようなところが三回に減るぐらいのもんじゃからのう」
作品名:花と桃と紺碧 作家名:諸星JIN(旧:mo6)