天に飛び立つ銀の鳩
ねがいのことば
終点に決めるだけのベンチはなかなか見つからなかった。あるものは景色が悪く、あるものは釘がはみ出していて、あるものは誰かの靴のあとがくっきり残っていた。どうしてこんな景色の悪いところにベンチを置くんだ、とか、こんなのに座って釘が刺さったらどうするんだ、とか、そのひとつひとつにハリーは細かく文句をつけ、そのたびにルーピンはおかしそうに笑った。笑い事じゃないですよ、とハリーは頬を膨らませる。
「だってこんなベンチに座って先生の服が破けたらどうするんです」
「縫うからいいよ、いまさらひとつくらい穴が増えたところで、大したことじゃない」
「そういう問題じゃないですよ」
「そういう問題だよ。それにわたしの裁縫の腕はなかなかのものだと思うのだけれど」
「いや確かに、先生は裁縫も上手ですよ、でもね」
「ああでも、ハリーの服に穴が開くのはよくないね」
「そういうことじゃないですよ」
「そういうことだよ」
何がそんなにおかしいのか、ルーピンはずいぶんと楽しそうに笑った。きっと僕がいちいち文句を言うのが面白くてしかたないのだろう、それに反論するのが楽しくて仕方ないのだろう、とハリーは推測する。言葉を投げ合うことは確かに楽しいことだけれど、こんなベンチに先生を座らせるわけにはいかないのだ、絶対に。どんなに条件の悪いベンチでも、ここにしましょうとハリーが言えば、ルーピンは躊躇いなくすとんと腰を落としてしまうだろう。それが分かるからこそ、ハリーはベンチの欠陥ひとつひとつをあげつらう。しかし大袈裟に言えば言うほどルーピンはベンチを擁護するから、その存在価値についての議論は空転したまま思いがけないところへ着地しそうになる。ハリーは結論を蹴り上げ、その勢いのままルーピンの腕を取った。
「ああもう分かりました!ですから次に行きましょう、次!」
「はいはい、次だね、次」
腕を取られると、とくに抵抗するでもなくルーピンはハリーに従って歩く。ルーピンにしても、どうしてもこのベンチに座りたいというわけではないのだ。空転する議論を楽しむ、というよりは、議論を空転させて楽しんでいるのだろう。次に行くと決めてしまえば、釘の出ているベンチにも景色の悪いベンチにも、大した未練は見せなかった。腕を取られたまま、次のベンチは遠いねえ、などとのんびりした口調で先を見遣っている。
くねくねと蛇行しながら伸びる小道。次のベンチは見えない。並木の陰や緩やかな坂道の向こうにひょっこりと姿を現すのを待って、彼らは歩みを進めた。公園にかぶさる空は青く、ほとんど無駄と思えるほどに広かった。等間隔に並ぶ木の枝に白い蕾がほころんでいて、それが灯火のように静かに道を示す。あの暗闇でハリーがすがった街灯に似ていた。圧倒的な無言の力で、街灯の明かりは白々とハリーを引き寄せた。導かれることを疑わせず、ほかのルートを探すことを思いつかせない、その点で二者はとてもよく似ていた。花が導く先にほんとうにベンチががあるかどうかなんて分からないのに、けれど遠くまで続く白い花に少しの禍々しさも感じないのは、花の持つ力ゆえか、空の明るさゆえか、それとも。となりを歩くひとは穏やかに微笑みながら流れる景色を見送っていた。白い花は小さな声で知らせる。このみちをまっすぐ。次のベンチはこっち。
「道標みたいだ」
ぽつりと、思わず呟く。転がり出た言葉はルーピンの耳に滑り込んでしまったらしく、彼はハリーに目を向けた。
「道標、ああ、花」
君の"たとえばの話"のね、とルーピンは納得したように頷き、ゆっくり視線を上げた。白い花は現れて、頭上を流れてゆきすぎる。
「ああ、そうだね、そうかもしれない」
ルーピンは時間稼ぎのような言葉をいくつか並べた。小道は緩やかなカーブを描いて続く。ハリーは口を挟まず、ルーピンが次の言葉を選ぶのを待った。急がなくていいのにと思うけれど、彼の言葉を遮る気にはなれなかった。歩数を数えながらルーピンの呼吸に耳を澄ませる。
「わたしはね、ハリー」
名を呼ばれて、ハリーは立ち止まった。そして身構える。ルーピンの声は優しい。優しいまま彼は告げようとしている。微笑んだまま、彼は自分の傷を開こうとしている。滴り落ちる赤に指で触れようとしている。優しく微笑んだまま。空は無駄に青く広く、のっぺりと頭上を覆う。指をかけるための小さな起伏さえ見つからない。
「君のことをとてもあいしているんだよ」
ルーピンはハリーに微笑みかける。ハリーは止めない。赤く染まる己の指をルーピンの瞳が捉えている。ハリーはそれを見つめる。ルーピンが見つめる世界を。
「わたしの持つもののすべてを、ぎゅっとてのひらで固めて、ちいさなかたまりにできればいいと思った」
子供の頃の思い出を語るような口調。穏やかな眼差し。ふたりの傍を通り過ぎて風が髪を揺らし、白い花を揺らして空へと抜ける。ルーピンは視線を上げて目を細めた。
「この花の蕾のような形に。木に留まって春の光を浴びる白い小鳥のような形にして、君たちに渡せればいいのに。そう言ったら、彼は笑ったんだよ。ひどいよね、笑うことないと思わないか?」
くすくす、とルーピンは笑った。昨日聞いたジョークを思い出したような顔で。ハリーは視線を外し、それからルーピンにあわせて花に目を向けた。
「でもきっと、彼も同じ気持ちのはずだよ。わたしにはそれが分かる」
風に揺られて凛と立つ鳥は空を見ている。
「君には」
しばらくあと、彼は言った。
「そういうものをあげたかった」
ハリーは花を見つめたまま動かなかった。じゅうぶんすぎるほど、もうもらっていた。それ以上なにもいらなかったのだ。花は青い空をバックにその祝福された姿で枝に留まる。視線を外すことができない。
掠れた声が、ようやく出た。
「僕だって同じ気持ちです」
ルーピンは笑わなかった。静かにハリーの肩を抱いて、そっと息を詰めた。
「君のことをとてもあいしているんだ」
「ええ、知ってます。僕も先生をあいしてます」
「ああ、それはありがとう」
ハリーに片腕を預けたまま、くすくすとルーピンは笑った。あ、本気にしてないでしょう。そんなことない、本気にしてるよ。あいしてるんですってば。うん、分かってる。ひどいなあ、一世一代の告白なのに。分かってるよ、嬉しいよ。ほんとうに?ほんとうだよ、このパイを全部あげてもいいくらいだ。ああもうやっぱり分かってないじゃないですか。
寄り添うような抱擁。距離が近いから、小さな声で事足りる。少し笑うだけで先へ進める気持ちになる。肩に置かれたルーピンの手は暖かい。ハリーは彼の背に手を置いた。この手は彼に温度を正しく伝えているだろうか。彼を引き留めるだけの温度を保っているだろうか。