ゆびさきのゆくさき
19:20
雨が降り出したのは辺りが完全に暗くなってからだった。
雨の匂いが鼻腔を掠めたところで嵐がくるという言葉を思い出したラルクは、慌てて開いていた窓を閉めた。閉めたのと同時にぽつぽつと雨粒が窓を叩き始め、かと思えばそれが横殴りの豪雨となって窓をがたがた揺らし始めるのに10分はかからなかったように思う。
やがて低く響いていた唸りは完全な雷の姿を成し、閃光と轟音をわめきちらかしていた。それが光ってから鳴るまでにタイムラグが殆ど無いということは、かなり近くまできているのだろう。いちいちちらつく雷光と耳を劈く雷鳴が鬱陶しい。早く過ぎ去ってくれたらいいのにとつい舌打ちをする。
疲れた体が重力に任せてベッドに倒れこむ。勢いのままラルクの体が数センチだけ弾んで、スプリングのきいたベッドが少し軋んだ。白いシーツが視界を埋める。目を瞑ればそのまま寝てしまえそうだ。同室のはずのサージュはそういえば夕飯後から姿を見ていない。一体どこにいるのやらと思ったが興味が無いので考えるのはすぐにやめた。
それより明日は晴れるだろうか。わからない。そういえばギルドにも行かなければ、すっかり忘れていた。そろそろ食料も尽きてきていた気がする。リキッドも予備を買っておかなければ。
奔逸した思考はまとまらないままやがて睡魔を連れてくる。元よりその甘い誘いを断る気はさらさらない。沈んでいく意識を手放しかけたちょうどその時、部屋のドアがこつこつ、と二回ノックされた。急浮上した意識は完全に睡魔を逃がし、ラルクは不機嫌そうにはい、と声をかけた。鍵は掛かっていないはずだ。しかし待てど返事もドアの開く音もない。入れよ、と声を掛けるが一向にそのドアは開かれない。無意識に鍵を掛けてしまっていただろうかと思って飛び起きて慌ててノブをひねる。が、やはり鍵は掛かっていない。怪訝に思いながらそのままドアを開けば、外にいるのは所在なさげに佇むニコルただ一人だった。
「あ!よかったあ、起きてたんスね!あの、ちょっとアニキに相談が…」
まるでこの世の救世主でも尋ねてきたかのように、ニコルが待ってましたとばかりに爛々と目を輝かせた。
「相談、ねえ」
何故だかあまり良い予感はしない。大体ニコルからの相談事といって今まで有意義な相談があっただろうか。ちょっと思い当たらないあたりがまた良くない予感を増幅させる。愚者に千慮の一得とは言うが、その一得が今であるとは到底思えない。返事に窮しているとまた眩い閃光とどおん、という轟音が響き渡った。こりゃ近くに落ちたなあなどと考えていると目の前の男がひいいと高い悲鳴を上げながらうずくまる。
それを見てラルクはなるほどそういうことか、と直ぐに納得した。
「お前…もしかして雷が怖いとか言うんじゃないよな?」
できることならば外れてほしいと思って口にしたその予測は、しかしニコルの驚愕によって一瞬にして砕かれた。
「えええ!ど、どうして分かったんスか!」
「…マジかよ」
そして襲い来る落胆。20歳にもなって、なんて罵り文句がニコルには通用しない事をラルクはよく知っている。それにしなくとも元々軍人なのに情けない。大体頼ってくるところが3つも年下というのも情けない。もっと情けないのはこんな情けないニコルを結局なんだかんだと心配して世話を焼いてしまうラルク自身なのだが。
「で、どうしてほしいんだよ」
「今晩ここに泊めて欲しいッス!」
よくもまあこんなときばかり堂々と言うものだ。
「大体お前の部屋はあっちだろうが」
廊下を挟んで真向かいの部屋を指差す。厳正なくじ引きの結果、ニコルは今晩オイゲンと一緒の部屋割りだったはずだ。しかしそれを意に介さない様子でそれなら、とニコルがへらへら笑った。
「さっきサージュに交代してもらったッス」
「あいつ…」
脳裏を過る男は後で殴っておこうと思う。
20:00
前後不覚。ニコルはすっかり途方に暮れていた。
夕飯後、同室だったはずのオイゲンはどこかへ行ったきり帰ってこなかった。そうして一人になった寂しさを持て余していたニコルに追い討ちをかけるように襲い掛かったのは無情にも激しい雷雨で、それらは彼を心底怖がらせるのに充分すぎるシチュエーションだった。とてもじゃないが耐えられないと部屋を出たのはもう何時間も前のことで。廊下で無愛想なサージュに鉢合わせして部屋の交代を願い出ると意外にもすんなりと承諾され、そうしてニコルが行き着いた先は――やはりというべきか、ラルクの部屋だった。
呆れられながらも受け入れてくれた彼の頼もしさときたら思わず抱きついてしまいそうになった程で、反面ニコルは自分の胸のあたりがちくりと痛んだのを自覚していた。空いているベッドを拝借、すぐに潜り込んで雷雨をシャットダウン。最初のうちは怖がるニコルを気にかけてくれていたラルクも、しかし30分と待たずに寝入ってしまったらしい。そうしてニコルはまた一人になった。
絶え間なく、だが不定期に鳴り響く雷鳴と雷光。恨めしそうに唸る風と怒り狂ったように窓に打ち付ける雨。到底不穏としか表現しようのない音の集団がまるで今にも食らいつかんばかりにニコルを責立てる。耳を押さえた手は痺れているし、強く閉じた瞼は時折痙攣している。いっそ眠ってしまいたいと思うのに、心臓は耳元で高鳴ったまま平生の静けさを忘れ去っている。どれだけ掛け布団に包まっても、枕に顔を埋めても何も解決しなかった。
厄介なのはどれだけ耳を塞いでも、どれだけ目を閉じても光も音も消える事はないという事実。それを早々に受け入れられたなら、そしてすうすう寝息をたてているラルクのように意識の外へ投げ出せたならどれだけ楽だろうとニコルは思う。思ったところで叶いはしないことも分かっている。分かっているからこそ逃げてしまいたくなる。それを臆病だと言われたところで、どうしようもないことなのだ。考えるよりも早く、行動するよりも早く、ニコルの頭は恐怖で一杯で破裂してしまいそうになる。いつだって震える手を、足を、体を抑える術をニコルは知らない。
どん、とまた雷が落ちる。止む事のない稲妻はニコルから視覚と聴覚を奪わんとでもいうようにその勢いを留めることはない。脊髄反射で体がびくりと跳ねる。ああもうどうしようもない、どうしたらいいかわからない。一度顔を出した恐怖は底を知らないから厄介だ。
息苦しくなって掛け布団から頭を出す。次の稲妻に怯えながら隣のベッドにいる筈のラルクを見る。緩やかに上下する布団。ニコルの心中などお構いなしに穏やかな寝顔を覗かせているラルクを羨ましく思いながら、ニコルはなけなしの勇気でベッドから這い出た。最後の手段に出るために。