【腐】相手以上、相手未満【レグリ】
腰のベルトには、ボールがひとつもなかった。息を飲む。急いでベッドから降りて、テーブルにある荷物を引っ張る。すると、一枚の紙片が床に落ちた。乱暴に拾い上げる。
「ボールはジョーイさんに預けています」
丁寧だけど角張った字を読み、安堵の溜め息を吐く。これは、挑戦者の少年が残したメモなのだろう。レッドが倒れた後、少年は自分を連れて山を下り、この部屋で休ませてくれたらしかった。今はいない彼への申し訳なさと感謝の念を込めて、紙を丁寧に折り畳んでポケットに仕舞った。
帽子を軽く被る。次にバッグを肩に担ぐ。なくなって困るものはないので、中身は確認しなかった。部屋を出て扉を確認する。休憩室と書かれたプレートが嵌め込まれていた。休憩室の向こうはベンチやパソコンの配置に見覚えがある部屋だった。聞いた事のあるジョーイの声がした。やはりセンターであった。
受付に座っていたジョーイがレッドに気づく。帽子を脱いで黙礼をすれば、彼女は安堵の表情を浮かべて手招きした。
「お世話になりました」
「いいのよ、結構君みたいな子、来るから。慣れてるわ。それより目が覚めて良かった。丸一日寝てたのよ、あなた。身体は大丈夫?」
「お陰様で」
「そう、本当に良かった。でも後でちゃんとお医者さんに見て貰ったほうが良いわ。うち、人間用じゃないから、確かなことはわからないし」
「はい、機会を見つけて診てもらうようにします。ところで、ぼくを運んだのは、帽子を被った、あまりぼくと年の変わらない男の子ですか」
「ええそうよ。黒髪で、帽子を反対に被った子」
「その子はいま・・・」
「もう居ないわね。あなたを連れて来て、直ぐに出ていっちゃったの。一応止めはしたんだけど・・・」
「分かりました、ありがとうございます」
「いいえ。それにしても残念ね。でもきっとまた何処かで会えるわよ」
ジョーイの根拠のない言葉に、レッドは苦笑を浮かべて頷いた。
「まあ、彼もなんだけど・・・。あなた、もう無理はしないようにね」
ジョーイにたしなめ、レッドは素直に頷く。それを見て彼女は口許を緩め、「預かっていたから返すわ」とボールを六つ、レッドに返した。
「みんなすっかり元気になりましたよ」
すっかり何時もの営業に切り替えたジョーイが澄ました笑顔で言う。
「ありがとうございます」
「いいえ。またのお越しをお待ちしております」
優し気な声に送られて、レッドはセンターを後にした。
懐かしいトキワの町に、レッドは思わず足を止めた。この町を後にしてシロガネに向かってから、もう幾年も経つ。初めてトキワの町に踏み込んだ日の幼い自分を思い出しながら、レッドは故郷への道をゆっくりと歩いた。草むらを抜ければ、直進でマサラに着く。時間はほとんどかからない。木々の隙間から伺える故郷もまた、トキワと同様懐かしい姿のままのようだ。知らずに速足となっていた。
ああ、マサラだ。故郷の土を踏む。嗅ぎなれた草花の匂いや温かな風がレッドを包む。マサラで過ごした様々な情景が一気に流れ、最後には頭が真っ白になった。胸を満たした故郷の空気に、身体の力が抜け、軽くなったように感じる。マサラの町に差し込む道からはレッドの実家の背を見ることが出来た。真っ白な壁は、綺麗な姿のまま残っている。一本道を挟んだ隣に立つ幼なじみの家もまた変わりないようだ。
子供が三人、レッドの前を駆けていった。そのうちの一人が、訝しげな表情でレッドを見る。帽子を取って薄く笑うと、子供は安心したように笑顔になった。そして、友達に置いていかれたことを知り、すぐさまレッドから関心を外して、友達を追いかけた。
さあ、どうしようか。レッドは二歩目を踏み出せずにいた。何せ、何年かぶりの故郷だ。どこから顔を出すべきか悩む。子供の笑い声が響いた。先ほどの三人組が草を摘み、互いに掛け合っている。
懐かしい。よくああやって遊んだものだ。幼かった頃を振り返り、レッドは何年か振りに母親の笑顔を思い出した。そうして行き先は決まった。やはり最初は実家に戻ろう。
「レッド君?」
戸口に立った時、レッドは不意に声を掛けられた。聞き覚えのある声に顔を上げる。隣家から丁度出てきた女性が、目を大きくしてレッドを凝視している。
幼なじみの姉であるナナミだ。懐かしい姿に、レッドは挨拶も忘れて立ち尽くした。彼女は、記憶の中の姿より、ずっと綺麗だった。相変わらず肌は透けるように白く、長い髪がその肌に掛かっていた。髪が伸びたな。レッドはぼんやりと彼女を観察した。ナナミは口元を手で覆うと、つかつかと歩み寄った。大きな瞳が潤んでいる。白い手がレッドの頬を包んだ。花の匂いがする。昔、彼女の弟と作った花束を渡した時の彼女の笑顔が頭に浮かんだ。
「本当に、レッド君?」
「お久しぶりです」
おずおずと返事をする。ナナミはぱっとレッドから手を離し、今まさにレッドが手を伸ばしていたレッドの家の扉を無遠慮に開け放つ。「おばさん、レッド君、レッド君が」等と大声で母親に呼び掛けながら、どかどかと家の中に消えていった。
その後、レッドは母親からの強すぎる抱擁と説教を受け、次に休む暇なく母親とナナミに研究所へ引き摺られた。博士との挨拶を済ませたら、今度は町中の家と言う家を訪ね歩かされた。見せ物か何かになった気分で苦行を終えた時には、故郷への哀愁はとっくに失せていた。最後はナナミに、彼女の家へと押し込まれる。母親は、今日はご馳走をつくるからね、と張り切って家に帰って行った。
すっかり疲れきり、椅子にだらしなく身体を預ける。ナナミの出した紅茶は相変わらず口当たりの優しい、ほっとする味だった。それを全て飲み干すと、直ぐに二杯目が注がれる。
「シロガネ山かあ。そう言えばお爺ちゃんから聞いたことあったなあ」
レッドはクッキーを頬張り、視線でナナミの話しを促した。
「私とグリーンが小さい時にね、悪い事をしたらシロガネ山の神様が夜の間にやって来て、悪い子供を山に連れていってお仕置きするんだぞって、よく聞かされてたのよ」
ふふ、とナナミが鈴の様に笑う。
「私もグリーンもね、その話しを聞いてからしばらくの間、夜に窓から山の方を見れなくなったの」
懐かしさにナナミが目を細める。レッドは三枚目のクッキーを飲み込んだ。
グリーンはいま何処に。問い掛けようとした時、チャイムが鳴った。もしや、とレッドの胸が跳ねる。ナナミもそう思ったのか、急いでドアを開いた。
「あら、ヒビキ君」
どうやらグリーンではなかったようだ。ナナミとは随分親しいようで、戸口で賑やかに何か話している。クッキーの五枚目を咀嚼していると、ナナミが「ああ、立ち話しをさせちゃってごめんなさい。ヒビキ君も入って」と、少年を招き入れた。
クッキーを噛む動きが止まる。少年もまた、静止した。それは、レッドを破り、トキワまで送り届けた少年に違いなかった。トキワのジョーイの言った頼りない言葉が頭を過ぎ去る。あまりに出来すぎた偶然だ。
「あんた、シロガネの」
「どうも」
戸惑いながらも礼をすれば、少年もレッドに倣い、慌てて帽子を脱いで挨拶した。
「あら、レッド君とヒビキ君は知り合いだったの?」
作品名:【腐】相手以上、相手未満【レグリ】 作家名:柚木@ツイ徘徊中