屋根裏部屋の内緒話
2.
とても静かな夜だった。遊馬のいびきが時々テレビの音声をかき消してしまうのを除けば。何しろ深夜なものだから、テレビの音量は必要最低限に抑えられているのだ。
視線はずっとテレビに釘付け。しかし、意識は別の方を向いている。遊馬におやすみを告げた時からずっと、アストラルはこんな調子だった。そわそわする気持ちを無表情に覆い隠して、彼は待っている。待ち望んでいるのだ、ここに来るはずの何かを。
と、アストラルの耳に微かな物音が届いた。かちゃかちゃと爪で床を引っ掻くような小さな足音。音の主は度々立ち止まり、ちゅうちゅうと甲高い声で鳴く。明らかにアストラル目指して近づいている。
最後にことこと音を立てて、古びた宝箱の陰からひょっこり顔を出した者がいた。カードの種族では獣族に分類され、遊馬たちは「鼠」と呼ぶ小動物。アストラルが与えた個体名は「チュウマ」という。
しばらくの間、チュウマは尖がった鼻先を忙しげにひくひく動かしながら宝箱の陰に留まっていたが、
〈チュウマ〉
アストラルが親しげに呼びかけると、細長い尻尾をぴんと立ててアストラルの元に走り寄った。
九十九家には居候が住みついている。遊馬だけが知っているのはアストラル、遊馬と明里と春が知っている範囲ではオボミ、そして九十九家の面々が知る由もない居候の一団が、チュウマたち鼠の一家である。彼らが何匹いるか正確には分からない。チュウマ曰く、彼の家族は「いっぱい」いるそうだ。
遊馬にはまだ気づかれていないが、屋根裏部屋の片隅には鼠たちが齧って開けた勝手口――もとい、鼠穴が存在する。そこから鼠が一匹屋根裏部屋に入り込んでいたのをアストラルが見つけたのが最初だった。部屋中をちょこまか動く小さな生き物に興味を惹かれ、接触を試みたところ、どうやらこの生き物にはアストラルが見えて話もできるということが判明した。
当の鼠、チュウマにしてみれば青天の霹靂だっただろう。部屋の主が寝静まっていると安心しきっていたところに、頭上から急に青白く光る謎の生命体が姿を現したのだから。しかし、二言三言話している内に一人と一匹はすっかり意気投合した。アストラルと同じく猫が苦手というところも、話が合った理由の一つだったのかもしれない。
鼠の言語は人間のものとは全く違うが、心の声で話すアストラルには言葉の壁はないに等しい。人間である遊馬とも元々心で会話している為、対象が変わったところで大した手間はかからない。なので、チュウマが屋根裏部屋を訪れた日は大抵、彼が帰る時間になるまで世間話をしていた。
ある時、チュウマが床に散らばったカードに興味を示したのを見て、アストラルは思いついた。彼にデュエルを教えてみたらどうだろうか、と。
その日から、アストラルのデュエル講座が始まったのだ。日時は遊馬が寝静まる真夜中、彼が残していったカードを教材代わりにして。
曲がりなりにもデュエルの知識を持っていた遊馬と異なり、チュウマにデュエルを一から教えるのは、それはそれは骨が折れる仕事だった。まず、カードは食べ物ではないと教えるところから始めなければならなかったからだ。目を離すとチュウマはすぐにカードに歯を立てようとしてしまうので。
それでも、チュウマには元々素質があったのか、直接心に語りかけているのが功を奏したのか。今では、アストラルの指示通りにカードを並べられる程度に上達していた。……身体が小さいので、手札が持てないのとシャッフルに異様に時間がかかるのが欠点だが。
ぺち、ぺちとカードがデッキに落ちる音。チュウマは、小さな前足でカードをデッキから引きずり出してはデッキの上に置く作業を繰り返す。彼にはD-パッドを扱えないし、アストラルも実際のカードに触れられないので、デュエルをしようと思ったら下準備に結構時間と手間がかかる。
二人と一匹の頭上では、遊馬がハンモックに寝そべって安らかな寝息を立てている。時折小さく唸っては寝がえりを打ちハンモックをきしらせるが、眠りは深く当分起き出すことはなさそうだ。
小柄なチュウマの影は、月明かりとテレビからの光に照らされ、壁に何倍も大きく投影されてゆらゆら揺れている。
抱えたカードを数枚デッキに置きながら、鼠捕りは怖い、とチュウマは首を振った。あれに捕まったら最後、二度と家に帰れなくなるのだと。
〈帰れない? なら、捕まった者は一体どこに行くというのだ?〉
その問いには、分からない、と答えが返って来た。誰も帰って来られなかったから。一言だけ付け加えたチュウマの髭と尻尾がだらりと垂れ下がる。
立てた膝に顔を埋め、先ほどの出来事を思い返すアストラル。
チュウマの証言が本当ならば、あの時の遊馬たちの慌てふためきようにも納得がいく。鼠捕りは見かけによらず危険な道具だったらしい。あのシンプル極まりない紙の板が、にわかにあの不気味な怪物に見えてくる。
もしも遊馬が、鼠捕りによってどこかに連れ去られてしまったら。アストラルも道連れになるならばまだ対処のしようがあるが、万が一遊馬一人が目の前からいなくなってしまったら。――自分自身が消滅する訳でもないのに、それ以上の想像は何故だか感情が拒絶する。
人間は、不慮の事故で自らのライフを失ってしまうことがある。人並み以上に無鉄砲な遊馬は尚更だ。彼の行動にもっと注意を払っておこう、とアストラルは心に誓う。
カットの手を止め、チュウマがアストラルを見上げてきいきい鳴いた。
〈……ああ、私は大丈夫だ。心配させて済まない。――とにかく、チュウマ。台所にはあまり近づかない方がいい。遊馬のお婆さんとお姉さんが、戸棚周りを中心に鼠捕りを大量に仕掛けていた〉
分かった、皆にも伝えておく。そんなチュウマの返事にうなずいて、アストラルは続けてこう言った。
〈ただ、これだけは知っておいて欲しい。人間が君たちに鼠捕りを仕掛ける理由を。ここは、遊馬たちにとっても大事な家なのだ〉