アスモデウスの蜜壷
まるで嵐のようだった事が済むと、なんとか下着だけを身につけた菊は、しんと静まり返ったアトリエのソファで気怠い身体を持て余して少しだけ身じろいだ。
一体今は何時なのだろうかと窓へ視線を向けても、部屋に時計はないから、既に夜であるくらいしか分からない。
おそらくは夕飯時を少し過ぎた頃だろうか。
アントーニョは動けない菊を残してどこかへ行ってしまった。
おそらく母屋でシャワーを浴びてくるのだろう。
自分も後で借りようと思いつつ、情事の名残が色濃く残っているせいで身体も頭も重く、ぼんやりした頭でただ天井を見つめるのがせいぜいだった。
ちらりと視線を移すと、床に浴衣が脱ぎ捨てられたままで落ちている。
皺になってしまうから畳まなければと思う一方で、ふと先ほどの彼とのやりとりを思い出して菊は顔を染めた。
あんな美しい絵を生み出す魔法の手が自分を翻弄しているなんて、嘘みたいだといつも思うけれど、情事の時のアントーニョは強く、甘く、優しく蕩かして菊をどろどろに溶かしてしまう。
それはいつも言い表せないほどに菊の心を高揚させ、この上ないほど幸福にしてくれるのだ。
”あいつには気をつけろよ”
まだ会って間もない頃に、ロヴィーノは真剣な面持ちで菊にそう言ったのを思い出す。
その時は何を唐突にと思ったし、一体何を気をつければいいのか見当もつかなかった。
アントーニョはとてもやさしく、菊のことを傷つけたり、悪く扱うような素振りは微塵も見せなかったし、ちょっと変わっているが、人柄も善良そうに見えた。
だがもう少し彼を知った今なら、ロヴィーノが言った意味がよく分かる。
「菊? 大丈夫か?」
ふいに戸が開いたかと思うと、その奥から光を背にアントーニョが顔を出した。
近づいてくる彼の髪は、どうやらまだ生乾きのようで、ウェーブのかかった乾きかけた髪と、石鹸の匂いが仄かに香るのが妙に色っぽい。
声を出すのも億劫で頷くだけにすると、アントーニョは「ごめんな」と困ったようにソファを覗き込んでくる。
「無理させてもうたな…」
今回、彼欲しさに途中で煽ったのは菊の方だ。
だから気にするなと首を振ると、アントーニョは少年のような甘さの残る顔で困ったように笑う。
「夕飯作ったんやけど食べれそうか?それとも、ベッド行くか?」
労るように額の髪を漉く手がとても暖かくて、菊はうっとりと目を細めた。
決して彼は自分だけのものにはならないと知っているのに、例えモデルとしてここに呼ばれる一時だけでも、金で結ばれただけの関係だとしても、彼がこうして優しくしてくれるだけで、確かに菊は幸せだった。
恋にのめり込んで盲目になっていくのを、溺れる、と表現したのは一体誰だったのだろう。