優しき愛
†
「――新婦、日野香穂子」
牧師に名前を呼ばれた瞬間、隣に並んだ香穂子の肩がびくりと震えた。
「大丈夫だ……」
シルバーグレイのフロックコートに身を包んだ新郎――金澤紘人は、香穂子にしか聞こえない声でそっと囁く。
薄いレースのヴェールに覆われているせいで、香穂子の表情ははっきりと分からない。が、心なしか、緊張が和らいだようにも見える。
「貴女はこの男性と結婚し、夫婦になろうとしております」
香穂子は真っ直ぐに祭壇を見据え、牧師が紡ぎ出す誓いの言葉に耳を傾けていた。
この日のために準備した純白のウエディングドレスは、今まで金澤が目にした他のどのドレスよりも、香穂子の純粋な美しさを引き立てている。
白は花嫁の色――相手に染まるという意味を持つ。
その一点においては、もうすっかり自分好みに染まっているかもしれないが、香穂子にとって白は、一番似合う色だと思っているし、こうして花嫁となった彼女の隣に立つことができる喜びを、金澤は心の底から噛み締めていた。
新郎は高校教師、新婦は現役大学生――一年前にプロポーズを申し込んでから今日まで、結婚の準備に奔走する日々は、あっという間に流れた。
彼女と出会って数年の自分ですらそうなのだから、娘を長年育てた両親にとっては、さらに短い月日だったに違いない。
娘の腕を取ってバージンロードを歩いた父親の表情は、生涯忘れえぬ記憶として、金澤の脳裏に深く焼きついた。
「――その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、この人を愛し、この人を敬い、この人を慰め、この人を助け、その命の限り、かたく節操を守ることを誓いますか?」
よく通る牧師の声が、礼拝堂に響き渡る。
「……はい、誓います」
少し震えた……しかしはっきりとした声で、香穂子は誓いの言葉を口にした。
これまでは二人の間だけで交わしていた約束が、この神聖な儀式を機に、互いの親族を前にしての誓約となる。
「――それでは、指輪の交換を」
ハート型のリングピローに置かれた、銀色に輝く指輪を牧師が高く掲げた。
「新郎から新婦に……」
金澤は手袋を外した香穂子の左手に片手を添えて、牧師から受け取った指輪を薬指に嵌める。自分で嵌める分には造作もないその仕草が、いざ他人に対して行うには、骨の折れる作業だと初めて知った。
「新婦から新郎に……」
同様に香穂子も、震える指で、金澤の薬指に指輪を嵌める。こちらも難航し、第二関節まで嵌めるのがやっとだった。
「誓いのキスを」
牧師の宣言を合図に、パイプオルガンの演奏が鳴り響き、聖歌隊が賛美歌を歌い出す。
向き合った香穂子が、軽く膝を折った。
リハーサル同様、一歩前に踏み出した金澤は、祈りを捧げる聖女の如く俯いた彼女のヴェールの端をそっと摘む。ゆっくりとヴェールを上げ、後に流して指先で形を整えた。
朝も昼も夜も。幾度となく間近で見てきた香穂子の顔が、今日は一段と美しかった。
「香穂子……」
いいか? と目で合図をすれば、香穂子はこくりと小さく頷いて、恥ずかしそうにまぶたを閉じる。
金澤は香穂子の両肩に手を添えて身体を屈めると、自分を待ち受ける可憐な唇に、そっとくちづけた。
「――ご結婚、おめでとうございます」
フォーマルに身を包んだ後輩で、上司で……ついでに星奏学院の理事長でもある美丈夫が、祝いの言葉を述べた。生まれつきの仏頂面は、今日も健在である。
「おう、吉羅か」
「花嫁をひとりにしておいて、いいんですか?」
女性陣に囲まれた妻の姿を軽く見遣って、金澤は余裕の笑みを浮かべた。その光景はさながら、色鮮やかな南国の花に囲まれた一輪の白百合である。
「新郎なんてのはパセリだ。しばらくは女子連中のカメラモデルにしておくさ……どうせ残るのは、写真とビデオしかないんだからな。存分に撮ってもらった方がいい」
「……まったく、夢のない人だ」
「ん? 本当に夢がないなら、ここで式を挙げたりはしないぞ……」
呆れ顔の吉羅に、金澤は微苦笑を浮かべた。
「そうですね。その点に関しては感謝しています。姉も貴方たちの晴れの日に立ち会えて、喜んでいるはずです」
教会の裏手に顔を向けて、吉羅がすっと目を細める。建物の裏手にある墓地には、彼の姉が眠っていた。
「おいおい、礼をいうのはこっちだって。……お前の口添えがなければ、正式な信徒ではない俺たちが、ここで式を挙げるのは、難しかっただろうからな」
三ヶ月に亘って、日曜礼拝に顔を出した金澤と香穂子ではあるが、どちらも洗礼を受けた信徒ではない。
十年以上、通っている吉羅の顔があればこそ実現した結婚式だった。無論、高等部の頃から、ボランティア活動をしていた香穂子の影響も少なくはない。
「紘人さん……」
ドレスの裾を引き摺りながら、おぼつかない足取りの香穂子が近寄ってきた。吉羅の顔を見てぺこりと一礼する。
「香穂子、もういいのか?」
「はい」
「じゃあな、吉羅。……披露宴のスピーチは任せたぞ」
「ええ。忘れられないスピーチにしてみますよ」
含みのある冷笑を浮かべる後輩の態度に、金澤は一抹の不安をおぼえながらも踵を返し、花嫁の肩を抱いた。
「よし、そろそろ行くか」
披露宴までにはまだ結構な時間がある。
しかし、二人には、訪れるべき場所があった。
「なあ、お前さん、まともに歩けないだろ?」
式が終わり、ヴェールと長いトレーンは外したものの、生地をふんだんに使ったウエディングドレスと高いヒールの靴は、どちらも歩行を困難にする。
着丈の長いドレスには、日頃から慣れているはずの香穂子だが、それでもこの特別なドレスは勝手が掴めない様子だ。
「え、なに……?」
金澤は香穂子の脇の下と膝裏に手を回し、おもむろに抱き上げた。
「――きゃっ! ちょっ……!」
身体が宙に浮き上がる感覚に、香穂子が短い悲鳴をあげる。
身体を少しでも安定させようと、金澤の逞しい首に縋り付いた。それを見た参列者の間から「お姫様抱っこだ!」という歓声が沸き上がる。
「こっちの方が早いし、転ばれる心配もない」
香穂子を横抱きにした金澤は、黄色い声と、容赦なく浴びせられるカメラのフラッシュをものともせず、表に用意してあったオープンカーに向かった。
「こういう恥ずかしいのは、今日限りだぞ……」
助手席に香穂子を乗せると、運転席に回り込む。
今日のためにレンタルした車ではあるが、空き缶を付けることだけは全力で拒否した。
「私、どうして花嫁がオープンカーに乗るか、ようやく分かりました。ウエディングドレスで、普通の車を乗り降りするのって、難しいんですね」
「そんなことを思いつくのは、きっとお前さんだけだぜ」
花嫁の愛らしい解釈に、新郎は微笑んでハンドルを握る。
二人を乗せた紅のオープンカーは、晴天の港町を颯爽と駆け抜けた。