現ぱろ
夏だった。
エアコンもない古びた学生寮に住むものは少なく、夏期休暇中となれば住人は激減する。残っているのは自分と、こいつくらいのものだろう。と、林冲は部屋の隅にいる公孫勝へ目をやった。
林冲は天涯孤独だ。物心ついたときには既に両親はなく、唯一の肉親であった叔父は林冲が高校生のときに亡くなった。
途方に暮れていた林冲を拾ったのは宋江だ。宋江は身よりのない子供の里親のようなことをしている。まだ独り身のため、手元に引き取ることはできないが、学資援助をしたり保証人になったりするのだ。
宋江は県の社会福祉課に勤める職員で、仕事で身よりのない子供たちの実状を知るにつけ、じっとはしていられなくなったと言うことらしい。
公孫勝とは宋江に引き合わされた。公孫勝も林冲と似たような境遇だ。両親を事故で亡くし、唯一の肉親だった祖父も高校生のときに亡くした。
つまり林冲にも公孫勝にも実家と呼べるようなものがない。それで学生寮に居残る羽目になっているのだった。
ひとりでいるよりもましだと思ってみるが、公孫勝といたところで心が安らぐということもない。共通の趣味があるわけでもなければ、おもしろい話が聞けるわけでもないのだ。
公孫勝は酒も煙草も女も賭事もやらない。林冲の部屋に来ても、なにをするでもなく、ぼんやりしていた。放っておくと平気で三日でも四日でも食事を抜く。見かねて一日に一度は飯を食いに来いと言ったところ、律儀に毎日顔を出す。一年年長の林冲を敬う姿勢など微塵も見せないが、意外と素直に言うことは聞くのだ。
人形のようだった。なにが楽しくて生きているのだと聞きたくなる。いや、一度、実際に聞いたことがあった。なにが楽しくて生きているのだ、と。公孫勝は少し考えるような素振りを見せ、ついで総てが楽しいと言った。
公孫勝の言う楽しいは特に嫌なことがないという意味ではなかったかと林冲は思う。嫌なことはない、だから楽しいはずだ、と。
林冲は公孫勝から目を離すと窓の外へ目をやった。この時期、構内は閑散としている。ぽつりぽつりと控えめに灯る明かりが見えるだけで、あたりは暗い。それで星がよく見えた。
この時間になってようやく風は少し涼しくなる。構内には多く木が植えられていて、なんとかエアコンがなくとも凌げるのだ。
何気なく視線を室内に戻して、林冲は顔をしかめる。公孫勝は長袖のシャツを着ていた。汗一つかいていないが、見ている方が暑い。
「おい、公孫勝。おまえいつもそんな格好で暑くないのか」
「装束をつけて舞うことに比べれば、これくらいは暑いのうちに入らぬな」
相変わらずの言いようだった。おまえはいつの時代の人間だと訊きたくなる。道場で礼儀作法を叩き込まれた林冲も硬い喋り方をするが、公孫勝のそれはいっそ芝居じみていた。
「おまえ、その喋り方はなんとかならんのか」
「ならんな」
にべもない。
「劉唐はもっとまともだったぞ」
「あれは適応力が高いのだ」
「おまえは低いと言うことか」
「だろうな」
公孫勝は眉一つ動かさなかった。林冲はふんと鼻を鳴らす。挑発にも乗ってこない。まったくおもしろくない奴だ。
「これぐらいの暑さでまいっていては、舞台の上で倒れかねん」
ごく真面目に公孫勝が言った。静かな声に林冲は目を瞠る。適応力が低いから、今から慣れておくということか。舞台に立つ、その数時間のために、公孫勝は夏の間中、涼を求めることさえしないということだった。
なにからなにまで能のためだ。いったい、どれほどのものを舞台に捧げる気でいるのか。不幸な事故で両親を亡くしたが、元々は芸能一家の御曹司だということは知っている。亡き両親の想いを継ぐ。そんな気持ちでいるのかもしれない。多くの学生が享楽的に過ごす四年間も、公孫勝にとっては修行の日々に変わりはないのだ。
公孫勝に気負いのようなものは見えない。けれど林冲には能に総てを捧げるような公孫勝の生き方が痛ましく見える。
「そう言うが、実は入れ墨など背負っているのではないか。風呂場でもおまえの姿を見たことはないぞ。暑さに慣れるためというのは口実で、人に見せられない跡でもあるのではあるまいな」
公孫勝が色の薄い眸で林冲をじっと見た。そこに怒りはない。公孫勝は挑発に乗らない。わかっている。けれど公孫勝の能面のような無表情を崩したかった。
「なんだ、なんとか言ってみたらどうなのだ」
公孫勝が無言でボタンに手をかける。ひとつづつボタンを外していく白い指先から目が離せない。物音の絶えた室内で自分の心臓の音ばかりがうるさかった。
ややあって、ボタンを外し終えた公孫勝がシャツを脱ぐ。下に着ているのはありふれた柄のタンクトップで、公孫勝でもそんなものを着るのかと頬が緩んだ。そのまま、タンクトップの裾をまくりあげようとする。むき出しの二の腕から肩に掛けて、大きな傷跡が見えた。息を呑む林冲をよそに、公孫勝は無表情のまま上半身裸になる。ひたりと温度のない眼差しで林冲を見た。
「下も脱ぐか?」
わずかに首を傾けた公孫勝の身体には無数の傷跡が残っている。おそらくは両親を亡くした事故で負ったものだろう。見てはいけないものを見てしまった。林冲は公孫勝の古傷を抉ったのだ。
「な、なんだ。それくらいの傷跡なら俺にもあるぞ」
林冲はTシャツを脱ぎ捨てた。公孫勝の傷から目を逸らしてはいけないと直感的に思う。誰にでも傷はあるのだ。特別なことではない。公孫勝と同じように天涯孤独な林冲にはそれが言える。
「見ろ。これは試合で負った傷で、こっちは稽古のとき。これは喧嘩でだ」
ひとつひとつを指さしながら言うと、公孫勝が笑った。
「傷は男の勲章とでも言うつもりか」
口調ばかりは辛辣だが、表情に常の冷ややかさはない。初めて見る棘のない笑顔から目が離せなくなった。公孫勝もこんな風に笑うのだ。どういうわけか泣きたいときのように喉の奥が痛む。
「では、これは?」
公孫勝が腕を伸ばした。ひやりとした指先が胸の傷跡に触れる。心臓が跳ねる音が聞こえた。いつの間にか至近に公孫勝の顔がある。口の中がからからに乾いて、問いに答えることができなかった。
公孫勝の指に早鐘を打つ鼓動が伝わってしまうのではないかと不安になる。何を狼狽ることがあるのか。自分を叱咤したところで動悸は治まらない。気ばかりが急いて頭の中が真っ白になる。
公孫勝が林冲を見上げた。わずかに眉をひそめる。林冲が答えないことで公孫勝がなにを思ったかはわからない。指が離れる。思わず、その手を掴んだ。怪訝そうな眼差しに慌てて手を離す。なにをしようとしたのかは、自分でもわからなかった。否、わかりたくない。
「もう、いい。早く服を着ろ」
公孫勝から感じる引力を振り切るように俯いて、床に落ちたTシャツを拾う。公孫勝の身体は細身だが鍛え上げられていた。それも舞台のためだろうか。白い肌に走る無数の傷跡が頭から離れない。いくら痛ましく見えても、既に癒えた傷だ。抱き寄せて慰撫する必要などない。