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わが手に夏を

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 どこからか調達してきたティッシュでボトルと、高瀬の口元を拭ってくる。高瀬は河合の好きなようにさせながら、震える唇を開いた。和さん。うん?俺、和さんが。喉が引きつる。俺、和さんが、好きで。うん。……好きなんです。うんと河合が言った。笑顔だった。
 たまらなかった。夢を見ていたのかもしれない。そんなことがあるはずないと言い聞かせながら、その片隅でもしかしたらと期待していた。もしかしたら和さんは俺の願いを聞き届けてくれるかもしれない。そうして震えるてのひらを開いては握りしめを繰り返した。ボールを握り、ベース後ろのミットに投げ込むための腕で彼を抱きしめることはできないだろうかと。
 そう思っていた。高瀬は躊躇せず地べたについていた手で河合の肩を抱き寄せた。うわ、という小さな叫び声が思いのほか近くで聞こえて高瀬の心は震えた。分厚い体を力いっぱい抱きしめて、その肩に額を擦りつけた。和さん。温もった空気が口から吸いこまれて、高瀬はがむしゃらに繰り返す。和さん和さん和さん。
 ……準太。
 眼球が乾ききっている。河合の肩を抱きしめていた高瀬の腕はその一言でずるりと滑っていった。歯の根が震える。見ていられなかった。河合の背中の分厚い筋肉の感触や温い体温や、しっかりとした硬い骨。そういうものが一気に高瀬の頭を活性化させて、血が沸きそうになる。反面、その血のすべてが抜き取られていきそうだった。街灯に逆光になって河合の顔が見えない。笑っているのか怒っているのかも判らない。高瀬はまばたきを一つした。眼球が、まぶたに貼りついてしまいそうだった。……ばか、そんな顔するな。息のほうが多い声でそう言って、河合は高瀬の頭を撫でる。数年前と変わらぬ手の感触だった。いつまでもそうしていて欲しいのに、そんなふうに撫でられてはたまらないという思いで高瀬はもう動けなかった。とうとうてのひらで顔を覆ってしまう。……ほら、準太。手首が捕まえられる。ゆっくりと顔から引きはがされて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔が露呈した。ウェットティッシュでそれを強引に拭われる。抱き寄せられて、骨の抜かれた背中をぽんぽんと叩かれた。ごめんな準太、本当は、ずっと前から知ってた。
 耳元でささやかれる言葉に、息が詰まる。そのとき高瀬の中でなにかが勢いよく燃えあがり、じきに灰になって崩れ落ちた。
 高瀬はそのとき気づいてしまったのだ。これが普通の恋愛感情であればどんなにかよかった。こうして河合に触れられることで満足できれば、どんなにかよかった。こんな感情は、河合にとって害悪以外のなにものでもないだろう。高瀬がなにも言わず目を見開いたままであるので、河合が訝しそうに顔を傾けた。ごめんなと呟く。高瀬は狭い河合の腕の中で無理やり頭を振った。そうじゃないんです、そんなんじゃないんです。自分の言語能力に愕然とする。恐らく高瀬がどんなに言葉を尽くしても河合は完全に高瀬を理解することはできないだろう。ただ単純に、河合が欲しい。ただそれだけのことを伝えるのに、高瀬はなんの言葉も持たない。
 渾身の力をこめて高瀬は河合を引きはがした。そうして、すみませんと告げた。変なこと言って、本当に。……別に、俺はそんなふうに思ってなんかないぞ、……嬉しいと、思ってる。いいえ。いいえ、と高瀬はもう一度強く言う。こんなのは、よくないに決まってます。高瀬の肩に乗せられた河合の手がこわばる。準太、本当にそう思ってるのか。高瀬はもう、無我夢中に首を振るしかできなかった。
 伏せたままの鼻の頭に温い液体が這っていく。くちびるの端が塩辛い。俺は泣いているのだ。この絶望に。歯の根が震えた。河合の言葉を待たず高瀬はそのとき、その場からなにもかも置き去りにして逃げ去ったのだ。




 指定された喫茶店は表通りからワンブロック入ったところにあり、林立するビルの影がその窓に落ちている。頂点から少しずれたところにある陽は、それでも容赦なく高瀬のつむじを焼いた。店内は故意にか薄暗く、それまでコントラストの激しい世界にいた高瀬の瞳孔はきつく収縮した。しばらく、なにも見えなかった。
 島崎は奥の席に座っており、高瀬を見つけるとおおげさに手を振った。何十年ぶりか知れない。高校のときはなにを考えているのか判らない人だったのが、目尻に、口元に皺をためて表情をあらわにした。ここのコーヒーはそんなにうまくねえけど、うるさくないのが助かるんだ。高瀬はおしぼりと冷やを持ってきた店員に島崎と同じくホットコーヒーを頼み、お久しぶりです、と言った。
 聞いてるぜ、河合のことだろ。島崎の右手に無造作に置かれたスポーツ新聞は高校野球の面を開いて折り畳まれている。関東屈指の強豪校が準々決勝を突破したという記事が一番大きく、次いで地方校の勝敗が白黒写真を添えて報じられていた。大学のことはお前のほうが詳しいだろ。いや、俺はもう全然。俺もあのときは実家帰ってきたときにたまに飲む程度だったからなあ。島崎は地方大学に進学後、企業のクラブチームで野球を続けた。年齢を理由にクラブからは身を引き、今では通常業務をこなしていると聞く。
 でも、指導者には結構前からなりたがってたみたいだけどな、教職もちゃんととってたみたいだし。高瀬はコーヒーに口をつけたが酸味が強く、島崎の言うようにお世辞にもうまいとは言えなかった。ああ、そうだ、今の高校は大学OBの紹介だっつってたな、もともとそのOBが監督してたところにコーチで入って、定年で退職するのを機に監督に繰り上がったって。今でも、連絡取り合ってるんですよね。たまにな、甲子園に行くのが決まったときも電話したぜ。一つ島崎は呼吸を置いた。
 あいつ、お前になんか言ったのか。
 あの夜のことを一度思い出してからは、場面の一つ一つ、細かい所作まで鮮明に描き出すことができるようになっていた。温度、湿度、それぐらいの明るさだったか、手についた土の柔らかさ、河合の息づかい、吐瀉物の饐えた臭い、全てだ。あれから進んで高瀬から連絡を取ろうとはしなかったものの、なんどか河合の出場する試合を見に行ったことがあった。高瀬ではないピッチャーの球を素晴らしい音をさせて受ける河合の姿を見ながら、高瀬はいつも思っていた。河合にとって高瀬は数あるピッチャーの一人でしかないということ。そしてその逆もまた真であること。それは高校のときから、明文化はされずとも河合が態度で示し続けてきたことだった。受けるキャッチャーによって投球の調子の変わる、ムラのあるピッチャーにはなってくれるなと。それは高瀬が二年にあがったあの年から色濃くなる。
 頭では判っていた。つまり判っていなかったということだ。河合がホームにいないときでは腕が思うように振れない。河合に球を受けてもらうようになって、そんな風になってしまった自分に愕然とした。そしてその裏側で、河合もまたそうではないのかと問いかけるのが怖かった。疑うまでもなく答えは一つだった。愚かなことに、高瀬は一年以上かけて河合の言葉の意味を思い知ったのだ。
作品名:わが手に夏を 作家名:いしかわ