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わが手に夏を

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 俺と会うたび、お前と連絡が取れないことをぼやいてたなあ。そう島崎が告げた。高瀬はええ、と言ったきり口をつぐんだ。あんな非常識なことを口走った高瀬のことを、それでも気にかけてくれる河合。なんて残酷な話だろうかと高瀬は思う。あの頃の自分はその優しさを享受できる立場にいたのだ。
 島崎が視線を窓の外に移す。白っぽく光るアスファルトから陽炎が立ち上った。日傘をさした女性が一人、視界を横切っていく。会わないのか、高速飛ばせば日帰りで行けるだろ。河合の高校は先日の試合で敗退していた。地元には既に戻っているだろう。三年生には最後の夏だが、在校生にはまだ秋が残っている。
 あの人は、俺の青春そのものでした、……もう取り返すことはできないものです。島崎は窓にやっていた目を高瀬に戻し、コーヒーをすすった。くっせえセリフだな、言って島崎は口元を緩めた。青春なんて言葉、久しぶりに聞いた。
 島崎は帰りしな、手帳の頁を一枚破ってなにか書きこむと、高瀬の方に滑らせた。そのまま伝票を持って立ち上がる。電話番号と住所だった。誰のものかは自ずと知れたが、高瀬はそれを受け取るべきか一瞬迷い、島崎を見上げた。行ってやれよ、積もる話もあるだろ。そこで一呼吸置き、島崎は窓の外へ目をやった。もう、何年経ったと思ってるんだ。
 島崎の顔に縦横無尽に走る皺がいっそう濃くなり、ふと、高瀬はこの人はここで泣いてしまうのではないだろうかと思った。高校時代、とっつきにくい先輩という認識でしかなかったこの男が、感情を露にしたのはあの試合後だけだと記憶している。うなだれた島崎は決して泣いているのを見せようとはしなかった。
 行ってやれよ。島崎はそれだけ言うとすっと背を向けて高瀬の視界から外れた。高瀬は口の中で礼を言い、メモをしまった。ぼんやりとした照明が目に入り、少しだけ視界が明るくなったように高瀬は思った。




 いつも帽子をかぶるからという理由で整髪料もなにもつけていなかった髪に、友人から貰ったワックスを馴染ませた。高校のときよりも少しだけ髪は短い。友人と同じように頭の頂上のあたりの髪を立ててみたりもしたが、どうにも似合わず結局いつもと同じような髪形に落ち着いた。……野球のない生活というのは、なんと退屈で平和な日々だろう。
 三年生の春季リーグ途中、肘を再度痛めた。二年の夏に軽く痛めたところで、秋の終わり頃に医者にはもう大丈夫だろうと言われた箇所だった。といって、言い出せるような状況ではなかった。少ないピッチャーでなんとかやりくりしている状況であったし、なにより四年生のエースピッチャーもまた怪我をおして連日の試合に先発していた。高瀬はそのエースの後を継いでの登板が多かったため、彼の足のあとがわずかに残るマウンドを見下ろしながら肘の痛みに耐えるしかなかった。なによりここでマウンドを放棄すれば、それを最後にこれまで自分が積み重ねてきたもの全てが遠くなって、二度と手に入らなくなってしまうような気がした。投げ続けるしかなかった。
 そうして春を乗りきったあと、肘に神経をやっていたのが裏目に出たのだろう、今度は肩をやった。死刑宣告に近かった。
 リーグ中、高瀬の異変に気づいていたトレーナーには固く口止めをしていたはずなのに、監督をはじめエースの先輩までも高瀬の怪我には気づいていた。当たり前といえば当たり前だ。監督はピッチャーの経験もある人であったし、現役選手であればフォームの違和感にはすぐに気がつくだろう。すまなかったと監督は高瀬に対して詫びたが、投げるなと言われても高瀬は投げ続けていたに違いなかった。その先のことを考えたくはなかった。投げることにただひたすら集中していたかった。
 日常生活に支障はないが、これから先野球を続けるのであれば手術をしたほうがいいと医者には勧められた。しかし高瀬の答えは決まっていた。ここまでだ。野球部をしりぞき、寮を出、大学近くの安アパートを借りた。これまで野球に関しても多大な投資をしてくれた両親には申し訳なかったが、もう潮時だった。
 電車を乗り継ぎ、A大の野球部寮に向かう。平日昼間の列車内はひどく空いていて、高瀬は出入り口横の席に腰を落ち着けた。足元から冷房の風が吹きつける。陽射しは日を追うごとにきつくなってきており、陽が射す方向の窓は全て陽除けがおりている。それでも隙間から差しこむ光が高瀬の足元を明るくした。財布と携帯しか入っていない軽い鞄を膝の上に置き、高瀬は束の間まどろんだ。
 東京の外れ、A大の野球部グラウンド。掛け声が雲の積みあがった高い空にこだまするのを、高瀬はフィルムを見ているようなこころもちで聞いていた。熱せられた空気で薄く幕が張ったように世界が淀む。スニーカーの足がアスファルトの地面を踏みしめるたび、ああ、とうとう来てしまったと思った。練習の合間に、路線図をただ眺めていたあの頃がひどく遠かった。
 バットがボールを叩く音、キャッチャーのミットがボールを受ける音、スパイクがグラウンドの土を蹴る、土ぼこりが舞う。デニムのポケットに手を突っこんで、高瀬は呆然とその様子を眺めていた。少し前まではそこにいる自分を容易に想像できたのに、もうそれは叶わないのだと痛感する。呼吸が辛い。頂点を過ぎた陽はそれでも勢力を誇り、グラウンドをかんかんと照らした。
 グラウンド横の通路を、小走りに高瀬のほうへ駆けてきた選手に河合選手はいるかと問う。和さんは今ブルペンですとその選手は答えた。ブルペンの場所を教えてもらい、高瀬は再び歩き始めた。ジャケットの中で腕の筋肉が縮こまるのを感じた。和さん。ここでも河合はそう呼ばれているのか。高瀬は声には出さず和さん、と呟いた。そうして、深く息を吐いた。
 ブルペンでは左投げのピッチャーが一人練習をしていた。スリークウォータ気味に、少し下から投げこまれるスライダーは鮮やかな軌跡を描いて右下に構えた河合のミットに収まった。キャッチングの際の小気味いい音があたりに響き渡る。次、カーブいいっすか。低い声でピッチャーはそう寄越し、投球動作に入る。スパイクが土を蹴りあげる。しかしながらすっぽぬけたボールは河合の構えた低めの位置に収まらず、はるか頭上を通過してネットにぶつかり落ちた。サーセン、大丈夫っすか。お前のすっぽ抜けなんか怖くもなんともねえよ馬鹿。転がったボールを拾いあげ、ピッチャーに投げようとする。その動作がぴくりと止まる。河合の視界に高瀬が入った。高瀬はポケットから手を出し、ぺこりと頭を下げた。ボールは投げられず、小走りにこちらにやってくるしなにピッチャーに手渡される。そこで一言二言会話が交わされ、マスクを外した河合はネット越しに準太、と呟いた。
 久しぶり、どうしたんだこんな時間に。……ちょっと、挨拶に。挨拶って。……肩と肘をやりました。
 笑顔だった河合の顔が凍てついた。細められていた目がまん丸になり、ひゅっと喉が鳴る。高瀬はその様子をひどく平坦な気持ちで見つめていた。好きですと告げたあの春とは、似ても似つかない感情だった。
 医者は。……手術すれば前みたいに投げれるようになるだろうって。じゃあ。でもこのままでも日常生活に支障はないんです。
作品名:わが手に夏を 作家名:いしかわ