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比翼連理

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「顔色が優れぬようだが。まだ調子は戻らぬのか?」
 そっと遠慮がちに触れられた冷たい手の感触。その心地よさに酔い痴れそうになる己を恥じ、努めて冷静に振舞う。
「このような、時の流れの解らぬ場所にいれば、戻る調子も戻らぬわ。それに……眠るたびに雑音が煩い」
 こぽこぽと良い音を立てながら、グラスに注がれる紅い液体を見ながら、呟く。十分に満たされたグラスを冥王はシャカに差し出しながら怪訝そうに尋ねた。
「雑音とな?それはどういったものなのだ」
 冥王が差し出したグラスを受け取り、そのまま小さく揺れる紅い液体をじっとシャカは見詰めた。仄かに花の香りが漂う。
「―――人の思念のような感じだ。妄執に駆られた思念。油断すれば引き込まれるやも知れぬほど、強い意思を感じる。初めは……貴方かと思ったが、どうやら違うようだ」
 妄執に駆られた思念と言われ、一瞬、不快そうに眉を寄せた冥王は何も言わず、ただ黙って自らが注いだものを一口含んだ。
 シャカはその冥王の優雅な仕草をしばらく眺めたのち、ゆらゆらと揺れる紅い液体をくいと飲み干した。口中から喉へ、やがて胃の腑へと広がる熱を感じる。
「その思念は“冥王に奪われた”と言っていた。何を奪ったのかは知らぬが、よほど怨まれているようだな、貴方は」
 くすりとシャカは小さく笑む。そう、この冥王は欲深だ。冥界を手中に治めながら、なおも地上を欲した欲深な神。
 恐らくは天界や海界さえもその手に治めたいと思っているかもしれぬ。何の気まぐれか、今は自分を手元に置いているようだが、きっと以前にも誰かから略奪した者がいたのであろう。
 そうでなければ、あの憎悪の塊といえる思念は生まれないはずだ。
「余に奪われた?さて。心当たりはないが―――ああ、一つある。地上から……アテナからおまえを奪ってきたのだったな」
 穏やかに瞳が細められ、シャカの金色に泳ぐ髪を掬い取り、恭しく口づけてみせる。まったく、このハーデスという男の存在はよくわからない。物心ついた時から語りかけてきた神仏とはかけ離れている。
 シャカの知る神仏たちは宇宙の真理を説いても人に干渉するようなことは何もしない。アテナもそうだが、ポセイドンやハーデスといったギリシアの神々はなんと人に近い存在であろうと思う。それでも“人に近い神”と“神に近い人”との差は大きいのであろうが。
 それにしても、シャカに対するこの冥王の振る舞いには些か面映く感じてならなかった。まるで、壊れ物の硝子細工のように大切な扱いである。
 アテナのためならば、どのような責め苦にでも耐えてみせようと覚悟はしていたのに。
 まるで、冥王は自分が触れればシャカが壊れてしまうのではないかと思っているのだろうか?
 そんなはずはないだろうとシャカは思い、軽く頭を振った。
「また、いらぬことを考えておるのか、おまえは?」
「―――考えねばならぬ。我が身のことだ、当然であろう?」
「考えたところで、答えは出ぬ。また、答えが出たところでおまえにとって、良い答えとは限らぬ」
「―――冥王よ。人は答えを求め続ける愚かな生き物だ。知らぬよりは、知って絶望するのを望む、哀れな生き物なのだ。私もまた然り。良い答えなど、はなから期待はしていない。ただ『知りたい』と求めるのだ。そして、私の知りたい答えの鍵を貴方は握っているのだろう?」
 シャカの髪を弄っていた冥王の整った手が離れようとする一瞬を見逃さず、シャカは冥王の手首を掴んだ。
 冥王が一瞬にして緊張するのが伝わる。シャカは冥王が必要以上に自分に触れようとしない理由を薄々感づいていた。

  ―――鉄の自制心はどこまで持つかな?

 どこか遠くで嘲笑う声が聞こえた気がした。



作品名:比翼連理 作家名:千珠