比翼連理
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「アテナ、そろそろお休みになられたほうがよいのでは?」
サガの気遣いの言葉にアテナは眼下に広がる月光に照らし出された十二宮を眺めるのを止めて、微笑みを返した。
「心配は無用ですよ、サガ。私は今、喜びに心震えて眠ることができないのですから」
「本当に女神の大いなる力には誠、恐れ入ります」
丁寧に傅くサガにアテナの口元が自然と綻んでゆく。
「私の力だけではありません。皆さんの力あってこそ、です。私の力だけではあの戦いに勝利することなど……」
言いかけて黙り込んだアテナをサガは訝しそうに見つめた。先ほどまで喜びに満ちた表情は消え失せ、かわりにその花の顔には不安が覆っていった。
「アテナ?どうなされたのですか?」
はっとしたようにサガを見たアテナは軽く頭を振って、小さく「何でもないのです」と答えると、すくりと立ち上がった。
「やはり、少し疲れているようだわ。休むことにします。サガ、もう下がってよいですから。あなたも休むとよいでしょう」
「はい……では何かございましたら、いつでもお呼び下さい。アテナ」
するりと下がっていくサガの後ろ姿を見ながら、アテナは深く思考を廻らした。
―――私の力だけではない。
そう、私の力だけでは無理なのだ。
戦いの場は天界でもなく、地界でもない、『冥界』であった。
いかなる神の力も及ばぬ、あの場所。
大神ゼウスでさえも容易には手出しできない、あの『冥界』で。
そして、冥界を統べるのは冥王ハーデス。
ティターン神族クロノスとレアの寵児、偉大なる父ゼウスとは兄弟であり、強大な力を持つ神である。
祈りも生贄でも宥めることなどできない厳格かつ、冷酷な神。聖闘士の働きがあったとはいえ、本当に私はあの神を滅したのだろうか?
―――本当に冥界は滅した?
確かに……確かにあの時はそう思っていたけれど。滅したから、冥界に赴いた聖闘士たちを復活させることが叶ったの?
震える心を、身体を、己が細腕で抱きしめる。溜息にも似た息を吐き出しながら。憑りつく黒い記憶が静かな場所から這い出てくるような恐ろしささえアテナは感じていた。
―――本当にあそこは彼の支配する冥界だったのだろうか?
ならば、何故……あの場所に『あの神』はいなかったのか?
過去において冥界から一度たりとも動くことのなかった『あの』ハーデスをも動かした、『あの神』の姿は?
ハーデスのように眠りについていた?
―――いいえ!違う。
あの場には『あの神』の小宇宙の残滓さえも感じなかった。
冥界において唯一、『穢れなき』神。
唯一、『地上の光を放つ』神。
そして、冥界と地上を繋ぐ架け橋。
『アテナ』の記憶の片鱗に触れる。
そう、天と地の狭間……禁断の花園『ニュサ』。咲き誇る百花の園にいつもあった、その姿。
輝く金色の髪を風に靡かせ、天空の蒼を双眸に、薄紅の唇に微笑みを浮かべ、美しく佇む『あの神』。
母神に愛され慈しみ育てられた強き神。
冥界の王に魅入られたがために、地上から連れ去られた悲しき神。
何があろうとも、決して冥界から動くことのなかったハーデス。
その彼が、恋焦がれ、『あの神』を得るがために大神ゼウスに頭さえ下げ、願い出た。ただ一度、ハーデスの眠る情熱に火を灯し、冥界から突き動かした美しき神。ハーデスの凍てついた心を溶かすことのできた神。
―――待って。
ハーデスは何故、地上を支配しようとしたの?
彼は冷酷だが、邪悪な神ではなかった。地界の支配を望むような神ではなかった。アーレスのような荒ぶる神ではなく、冥界において静かに「待つ」神であったはず。
それなのに―――何故?
戦いを挑んできた前聖戦の記憶を思い出す。発端は何だったのか?判らない。ただ、彼は狂ったように『何か』を求めていた。
そして、今回。
『あの神』は冥界にはいなかった。ハーデスに安らぎと愛を与えることのできる唯一の神。
だから……?
愛しき『あの神』を探し求めて?
ハーデスは『あの神』を得んがために、地上を支配しようとしたの?
あの神は……ハーデス、あなたのそばにはいなかったの?
「―――ペルセフォネ、あなたはどこに?」