比翼連理
7. 虚無ノ見ル夢
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「ハーデス様のご様子は如何か?」
漆黒の闇に艶を放つ髪をさらりと背中に流しながら、扉から現れたパンドラにラダマンティスが待ちかねたように声をかけた。
「いまや揺り籠に揺られてあどけなく眠る赤子の如く、静かにお休みであられる」
さらさらと衣擦れを伴うパンドラと共にラダマンティスは長い廊下を歩む。
「まこと……あのように心掻き乱されて、御労しい。ラダマンティスよ、なぜおまえはあやつを始末せぬのだ?」
不意に現れた冥王は闇夜に吹き荒ぶ嵐のごとく、ジュデッカに舞い降りた。
ニュサの園で何があったのかはわからぬが、冥王は荒れ狂う心のままに最後の審判を待つ死人の魂でさえも容赦なく塵と化した。
いつにない荒れように、猛者ぞろいの冥闘士たちも震え上がるほどであったのだが、何とか事態を沈静化するべく、パンドラが我が身を呈して尽くしたことで、元の静けさが戻ったのだ。
冥界を統べる闇の女王に畏まりながら、ラダマンティスは答えた。
「ハーデス様が望まれるのは、あの者がここに留まることなれば。我らはそれに従うまでのこと。浅慮なことは致しませぬ故」
「憎きことを言う。双子神の考えは違うようだが?」
「あの方々は―――あわよくば、冥界の統治者になろうと日々企てておられるゆえ」
「ふん。であれば、妾は彼らの言葉に耳を傾けるべきではないということか?」
「御意」
軽蔑するような瞳をパンドラはラダマンティスに向け、くるりと細い背中を見せると再び歩みを進める。それに付き添うようにラダマンティスも並んだ。
「―――だが。アテナの黄金聖闘士がこの冥界の一端にいると思うだけで、腹立たしいわ!それに……何よりも、ハーデス様があのようにお苦しみなる姿など二度と見とうない」
パンドラは僅かに哀しそうに呟き、切れ長の瞳を伏せた。愚かな黄金聖闘士は決して冥王の深く静かな愛を理解することなどできぬであろうとパンドラは思うのだ。そして、それでもなお、愛しみ、求めようとする冥王の心にパンドラの胸が痛む。
『――アレは決して余を受け入れぬ。魂の底から余を拒絶するのだ。わかっていたこと。わかりきっていたことであったのに……現実を突きつけられるのは辛きことよの――』
力なく告げる言葉に言い知れぬ冥王の悲しみの深さを感じるとともに、その寵愛を一身に受けながらも応えぬ愚かな者にパンドラは憤慨した。
『それほどまでに求めるのであれば、力尽くで奪えばよいではありませんか?』
そう提案するパンドラの言葉に冥王は頷くことはしなかった。
『――それでは心を手に入れることなど叶わぬ。余が欲しいのはアレの身ではなく、心』
「ラダマンティスよ」
「はっ」
私室の前に立ち、扉を開けようとしたパンドラがその手を止め、ラダマンティスを見た。
「ハーデス様は……一人の人間に心を囚われ…弱くなられたと、思うか?」
一人の人間に翻弄される冥界の王。下手をすれば冥界の弱点ともなりかねない。真剣な眼差しで問うパンドラの真意を測りながら、ラダマンティスは静かに、だが、力強く答えた。
「今はただ……標された道を失くし、激しい波に翻弄される難破船のように抗うこともできず心の波間に漂っておられるだけ。いつしか目指す道を見出したとき、迷いなく漕ぎ出でることでしょう……守るべきものができた時、男は強うなります。男とはそういったものですから」
まるで、パンドラ自身に言い聞かせるように告げるラダマンティスに、フッとパンドラの目元が柔らかくなる。それはまるで聖母のごとくの笑み。
おまえにも覚えがあるのか?
そう瞳は問うているようにラダマンティスは思えた。
「―――そうか。ならば、今しばし、事の成り行きを見守るとしよう。大儀であった。下がるがよい」
すっと重厚な扉の奥に消えていく、パンドラの姿を最後までラダマンティスはどこか愛しむように見つめた。