比翼連理
-5-
聖域は未曾有の危機に遭遇している。戦いの火蓋は切って落とされたのだ。すでに多くの人々の命の灯火が消えている。それでも、この沙羅双樹の園から出ることができないでいる。
サガが必死に結界を張っている。ああ、でも。この結界は破られる。数多の聖闘士たちが傷つき、戦っているというのに。
助けなければ。
守らなければ。
わかっているのに。
私は奇跡の力を発揮することができない。
―――私の手は血にまみれているから。
遥か遠い記憶のアテナを責めるのは今の私。
今の私を嘲笑うのは遥か遠い記憶のアテナ。
なぜ、争いはなくならないの?
私が存在するから?
私が地上に転生しなければよかったの?
『ソウシテ貴女ハ地上ヲ手ニシタノデハナイノカ?無垢ナル者ヲ裏切ッテ』
冥王の言葉が頭について離れない。
私は罪深い存在なのかもしれない。
私は人間を愛している、と思っていた。
本当は…愛しては……いなかったの?
『――アテナ、我々は貴方という女神を頂点に戴く。貴方が戦えとおっしゃるのであれば、地上の正義と愛を守るために命を惜しむことなく、聖闘士は我が身を貴方に捧げ、戦い、散っていくのです。シャカとて、そう思い、考えて冥界の実を口にし、契約したのでしょう。黄金聖衣は貴方を守る聖闘士に与えられる物。貴方を守りたいと願うシャカの心、貴方はどれだけ理解できているのか、私は知りたいのです』
サガの言葉は私をざくりと見えぬ刃で切りつけた。
シャカの心?
私には……わからない。
ペルセフォネの本当の心を、知ることさえも恐れたのだから。
ペルセフォネの本当の心を知ったとき、私はただ、隠しておきたかった。
――裏切りという罪を。
裏切り?
違う、裏切りではない。
これは正当な行為のはず。
地上を支配するべきはこの私。
私が世界を愛で満たすのだから。
間違ってなどいない。
遥か遠い記憶のアテナが嘲笑う。
『なぜ裏切った?人間を支配するなど……それでは貴方もゼウスと変わらぬではないか!なぜ…地上の覇権は人間に与えるべきだという神を…….陥れた!?』
荒ぶる神の姿がまざまざと脳裏に描き出された。そして、嘲笑うアテナの姿。
この記憶は一体なに?
ああ、やめて。
苦しめないで。
私はこの神を知らない。
―――アテナはこの神を知っている。
私は……何も知らない。
―――アテナはすべて知っている。
私は地上など欲しくない。
―――アテナは地上が欲しい。
「―――貴方は誰よりも人間に近かった。だから、地上を欲し、転生というシステムを選び、人間として、神として存在するのだろう。アテナよ」
力強くも穏やかな声が沙羅双樹の園に舞い降りた。
「そ…ん…な…どうやって……あな…たは……」
アテナの記憶で視た逞しい体躯に黒曜石に輝く意思強い真直ぐな眼差し。緩やかに波打つ黒髪が、血のにおいを孕んだ風にそよぐ。
「御久しゅう……ゼウスから生まれし、オリンポスの美しき戦女神よ。覚えていない?そんなことはない。よく私をご存知のはずだ、貴方は……」
向けられるのは春の木漏れ日のごとく穏やかな微笑みのはず。なのに、この魂の底から凍りつくような感覚に陥るのはなぜ?
ふっくらとした形の良い唇はわなわなと小さく震え、奥歯が合わない。ゆっくりと近づく男神の歩幅に合わせて、後退する。
「こ……こないで…」
青褪めていく顔を横に小さく振りながら、一歩、また一歩と後退する。
「なぜ、そのように怯えるのか?戦の女神ともあろう方が……」
追い詰められていく。トンと背中にぶつかるものの気配に一瞬気を取られた。
沙羅双樹―――。
次に男神を見たとき、すでに一歩も動けぬよう、左右の手をアテナの顔を挟むように沙羅双樹に着き、漆黒の闇を封じ込めた瞳で、じっとアテナを見つめた。
心拍数は限界を超えるほど早鐘を打つ。
「さぁ……よく見るがいい。私の顔を。いかがなものか?神々の王に逆らい、罰を受け、信ずる者に裏切られ、希望の光を奪われた哀れな男の顔を。ただ復讐することだけを願い続けた男の顔を」
闇の深淵に堕ちていく感覚がアテナを支配する。
―――ああ、シャカ。
私は、この男神を救えない。
私ではだめなのだ。
シャカ。
貴方でも、もう救えないかもしれない。
それほどまでにこの者は深い闇へと堕ちている……。
意識を手放し、ずるずると木の幹を伝うように崩れ落ちていくアテナの姿を、闇の瞳はただ静かに眺める。
赤く輝く月の光が、血の海に沈む忘れられた花園のように、沙羅双樹の園を妖しく染め上げた。