比翼連理
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(瞬間移動の能力を有するのか)
繰り出された拳をハーデスは動揺する事も無く、翳した掌で静かに受け止める。
「!?」
「激しい怒り…….女神を守護できなかった己への怒り。仲間を傷つけられたことに対する怒り。正体のわからぬ神に対する畏怖と怒り。そして、その場に居合わせた余への怒り。それから―――」
掌から伝わる聖闘士の心地よい闇の意思に瞑目しながら囁きを続ける。
「何を……」
「余を憎む?何故か……ほう。なるほど……」
一瞬、顔を歪ませたムウは後方に飛び退ると、きつい眼差しで冥王を睨み付けた。きゅっと固く結んだ口元が僅かに震えていた。
「ハーデス……おのれ……!」
「面白いではないか、アリエスのムウよ。“おまえ”をとくと見せて貰ったぞ」
己の内面を覗きみられたことに対して不快の念をあからさまにムウは表情で示していた。
「―――たとえ、おまえがどれほどに強固な壁を作ったとしても、我ら神からすれば、それは薄い紙片で作られた壁にしかすぎない。たやすく破れるというものだ。しかし、アテナも酔狂なことだ。おまえのような脆弱なものたちに身を守らせているのだから。ああ、だからおまえたちを捨て駒のように扱うのだな」
ふっと嘲るような笑みを浮かべてハーデスは聖闘士たちを眺めた。
色めき立つ周囲を殊更に煽るようにククと忍び笑う。
「捨て駒だと?」
「それでもアテナを守るか?アリエスのムウよ。地上の愛と正義とやらを嘯き、おまえたちを良い様に扱うアテナのために仕えるのか?愚かな人間たちよ、目を覚ますが良い。真に従うべき神はアテナではないということを」
「―――それで貴方に従えというのですか?笑止千万。誰がそのような余迷いごとを真に受けるでしょうか。貴方は私の心を覗かれたのでしょうが、私とて貴方の心を覗くことはできましたよ?」
何を垣間見たというのかとばかりに不愉快そうにハーデスは眉を顰めた。
「ほう……それで?」
「―――アテナの力の源。それはあの光。アレを奪い返せば宜しいのでしょう?アレは貴方にとっては忌むべき力。あの力が及ぶ限り、貴方は勝機を見出せないのではないのですか?貴方は…あなたたち闇のものたちはあの光に触れることは叶わない」
勝気な瞳で冥王を睨みつける。しかし、ハーデスは一切動揺を見せなかった。
「まったく忌々しいこと限りない。が、その通りだ」
あっさり、そのことを認める冥王に拍子抜けするとともに、不信感を抱きながらもムウは続けた。
「そして、あの力に触れることが可能なのはシャカ。だから、彼を冥界に奪い去ったのですか?シャカを懐柔して、アテナからあの力を貴方は奪おうとした。そうなのでしょう?」
断片的にしか見えなかったハーデスの心からムウは推測してみた。シャカを地上から奪っていった理由がここにあるのではなかろうかと。
しかし、冥王の表情からして、それは外れたようである。
「異なことをいう……余があの力の存在を知っていて、それを奪い取ろうと画策したとでも?フッ……下らぬ。余には不要だ、あのような力は。しかし、おまえが言ったことの中に真実も含まれておる。あの光に触れることができるのは、そこにいるアテナとシャカであろう」
「では、シャカをお戻しください。彼は我々に必要です。アテナにとってシャカは必要な者なのです。貴方と女神との間にどのような盟約が結ばれたのかは存じませんが、アテナは貴方にシャカを渡すべきではなかった」
「―――己の主君が間違っていると、一介の聖闘士ごときであるおまえがそう申すのか?」
「たとえ主であったとしても……いえ、主と認めるのならばなおのこと間違いは正すべきでしょう。さぁ、ハーデス。シャカを今すぐお返しなさい」
豪胆な腹を持つ者よ…と小さく呟いた冥王の言葉をムウは冷ややかに受け止めた。
黄金聖闘士たちに囲まれて、横たわるアテナに視線を流したハーデスは、すっと視線を移し、どこかもの哀しい瞳の色を携えて赤い月を見つめた。
「―――それはできぬ」
ハーデスはずしりと傷ついた腹部に走った痛みに耐えるように、そっと手を添えて静かに瞳を閉じた。この傷の痛みよりもなおも深く貫いているのは胸の痛みなのかと思いながら。
「なぜ?」
ざわりと沸き立つ聖闘士たちの炎がハーデスを包んでいくのを感じながら、深く息を一つついて、暗澹たる思いを吐露するかのように答えた。
「―――シャカは冥界におらぬ。何処かへと姿を消した。今回の争い……おまえたちは知らぬであろうが、同時期に冥界、聖域だけではなく、四界に敵が現れた。それは何故か?ただ己の恨みを果たすだけではなく、真なる目的は余から目を背かせ、シャカを冥界から奪い去り、アテナから力を奪うことにあったのだから」
「それは―――どういうことですか?」
「おまえたち人間は知るべきことではないわ。ただ言えることは一つ。おまえたちがアテナの力を取り戻したいというのであれば、あの神を……プロメテウスを打破し、シャカを取り戻すがいいであろう。ただし、我が冥界のものたちも既に動いておる。おまえたちは遅れをとっているから、その望みが叶うことは薄いであろうがな」
ハーデスの言葉にぎりりと奥歯を噛み締めたムウは残りの聖闘士たちを見遣った。
しばらくの間、無言でムウは何かを深く考え込む。聖闘士たちが怪訝そうにムウを見返している様子を眺めながら、ハーデスもまた、静かにムウが答えを導き出すのを待っていた。
やがて、一つの結論に達したムウは、冥王の前に歩み出た。
「―――私を連れて行きなさい、冥王よ。シャカがいた場所に。きっと彼がどこに連れて行かれたのかわかるはず」
ムウの申し出に、虚をつかれたかのような表情を浮かべた冥王は推し量るようにムウの瞳をじっくりと見据えると、やがて静かに頷いた。
「―――よかろう。来るがいい、仔羊よ。我が冥界の一端へ、おまえを連れて行ってやろう」
まるで闇の翼を広げるかのように腕を伸ばし、ムウの身体を冥王が包み込む。
異変に気づいた仲間の怒声に、ムウは振り返ると鮮やかな笑みを浮かべて、叫んだ。
「アテナを、聖域を―――よろしくお願いします!」
仲間がかけつけようとしたその瞬間、ふっとムウと冥王は闇の彼方へと姿を消した。