比翼連理
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蒼い光の満ちた静かな場所で冥王はまるで悠久の眠りにつくかのように、深く椅子に凭れ瞳を閉ざしていた。
その椅子の足元を見てムウはハッとしたように瞳を見開き、一瞬、顔を顰める。
ぽたり、とまた一つの深紅の滴が垂れる。
「―――怪我を為さっておいでか」
まったくそんな気配を感じさせなかった冥王に感嘆しつつ、どうやらその傷は深手であると察し、今後のことを思えば冥王が傷を負っているということは戦略的に痛恨の極みであるとムウは思った。
「場所は掴めたのか?」
ムウの質問には答えず、長い睫毛に縁取られていた瞳がゆっくりと開かれ、ムウを捕らえた。
希望も絶望もない『虚無』を現すかのような瞳。ハーデスのその美しい瞳に魅入られたようにムウは視線を逸らすことも叶わないまま、苦々しく思う心を表情に出すことはなく答える。
「ええ…….ですが強固な結界が張られていました」
「タナトスはその結界を破ったようだが」
すでに冥界の追手はかの地に舞い降りたのか……無表情を保ちながらも、内心に焦りが生じた。
「ふ……安心しろ、というのも可笑しなことだが、その先で待ち構えていた者たちに引っ掛かっておる。皆殺しにしろと命じたのでな」
ムウの内心の焦りを敏感に感じ取った冥王はクックと低く笑いながら、ムウを見た。
妖しく光る冥王の瞳はムウを見ているようで、その実、ここにはいないタナトスという者を視ているようである。
タナトス―――死を司る神の殺戮を目の前にいるハーデスは意識を共有し、自らがその殺戮を体感しているのだろうか?
ムウはぞくりと肌を粟立たせた。
―――恐ろしき男。そして。
「―――シオンとかいうたか、あの男。安らかに眠る死者の魂を、今一度呼び起こして欲しいのか?」
カチャリと金属音を伴いながら冥王は立ち上がり、ムウの前に歩み出ると、ゆっくりと嬲るように見つめながら、背後に廻った。
ムウは闇に抱きしめられ、堕ちていくような感覚に囚われながら、辛抱強く耐える。
「シオンは穢れなき聖域の覇者。それを貴方は穢した。仮初の命を与えられ、永きに渡り骨身を惜しんで御遣えしていたアテナの命を狙うとは……その御心痛、如何ほどであったことか。私は貴方を許さない。アテナが許したとしても」
「それで?もう一度甦らせて、おまえが慕うそのシオンとかいう人間の前で余を討ちたいと?」
「そうです」
「そして、アテナの実権を奪い、シオンを覇者として崇めたいと?愚かな人間の考えだな」
クックと忍び笑う冥王に毅然とした口調でムウは答える。
「貴方が視た私の心は確かにそうかもしれませんが、それを叶えようとは思いませんよ。あなたがおっしゃられるように、それは愚かな願望でしかありませんから。人間は一つ心のままに生きているわけではありません。誰しも闇は持っています。その闇を上手く飼いならして生きていくのです。シオンに、もう一度会いたいと思うのも確かにある。アテナを廃しシ、オンに聖域を統治していただきたいと思う心もある。けれども、それはあくまでも“思う”だけです。あなたたち神のようにそこまで傲慢ではありませんよ」
「ふ……々しいことをいう羊だな。まぁよい。しかし、おまえはあの結界を破れぬのであろう?どうするつもりか」
すっと背後から遠退いていく冥王の気配に緊張を若干緩めながら、ムウは振り返った。
「私をそこに飛ばすことはできますか?冥王よ。」
「―――それで?そこから先は魔の巣窟だが、おまえはどうするのか?」
「神魔のお相手はあなたの放たれた刺客が為さっておいででしょう?ならばその隙を縫ってシャカを探索し、連れ戻します」
「それは無謀としか言えぬが。あやつらは神の力を持つ。そんな相手に人間のおまえが太刀打ちできると思うのか?」
「ただの人間ではありません。聖闘士です。少なくとも戦うことはできますよ」
不安も恐怖も感じていないというような鮮やかな笑みを浮かべるムウを冥王は目を細めて見つめていた。どこか眩しげにも見えたのは気のせいかもしれないと思うムウであった。
「豪胆な羊よの。死を恐れぬか?」
「恐れはあります。けれども恐れているばかりではありません。立ち向かう勇気を私たち聖闘士はもっています。己の矜持にかけて」