比翼連理
21. 哀シキ願イ
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泉が静かに流れる音だけが支配していた庭園で、長い沈黙を打ち破ったのは、シャカでも、ムネモシュネでもない、第三者の存在であった。
「―――ペルセフォネよ。プロメテウスが奪われたあなたの力をアテナから取り戻すことに成功しました。完全なる破壊者となり、冥界を、天界を……海界、地界を―――世界を我らティターン神族のために、おまえの愛しいプロメテウスのために取り戻すのです。人間たちを支配し、共に我らの王国を創りましょう」
何もない空間からふわりと現れた女性にシャカは警戒する。
彼女もまた、ムネモシュネ同様、長い黒髪を持つ美貌の主であった。
しかし、彼女は口元にこそ微笑を浮かべてはいるが、その瞳は鋭く、総てを見透かしているかのような強さを秘めている。
冷徹な厳格さを感じさせる女性であった。
「テミス……」
ムネモシュネもまた、突如姿を現した彼女に対し、警戒しているかのようでもある。ちらりと心配そうにシャカを見遣っていた。
シャカはテミスという名の女性を慎重に観察しながらも、己の意思を伝えた。
「……違う」
「?」
「わたしは違う。おまえたちの望む者などではない。愛しいプロメテウスだと?ふざけたことを。わたしは斯様な者など知らぬ。それに地上は、人間は……おまえたちに支配されるべきではない!アテナが地上を守る限り、そのような暴挙が通るわけがない!」
「まぁ……何を愚かなことを。アテナが地上を守る?フフフ…おまえは本当にそう思っているのか?だとしたら、本当に愚かなこと。遠き過去において、アテナは妾と手を組んだ。地上の覇権を手に入れるために。妾はプロメテウスとおまえを引き離すために」
「どういうことだ?」
テミスの美しい顔に残酷な笑みが浮かび上がった。
「ああ、でも結果的には我々にとっては失敗だった。だからこそ、危険を犯してまで夜の一族を誑かし、あなたを一度滅した。おまえは必ず人間として転生するであろうと見込んで。転生したおまえが私の掟に従うように」
冷酷な微笑を浮かべながらシャカの前に一歩踏み出す。シャカは危険を察知し、すっと一定の距離を保つために後退さる。
「テミス、あなたは……なんという……!それがプロメテウスを苦しめ、あのハーデスをも苦しめているのに!」
ムネモシュネはテミスの肩に手を置き、訴えかけるが冷たく笑いながらテミスはその手を払った。そして、きつい眼差しでムネモシュネを責めるように答えた。
「我が子プロメテウス。あの者こそが世界の支配者に相応しい。そうは思わぬか?ムネモシュネよ。私の叡智をすべて与えし、愛し子。本来ならば一神にて、その頂に立つはずであった。それを邪魔する者がいた。あろうことかあの子は。しかし、先を見通す力を持ったあの子は深い思慮のもと、この者を選んだのだと納得しました」
「だからといって、このような争いの引き金となるようなことを仕組んだとは……仮にもあなたは掟を司る者ではありませぬか」
「ゼウス……ハーデス、ポセイドン。我ら一族を闇に貶めた者たち。ペルセフォネよ、おまえもまたそうであろう?おまえはハーデスの元になど望んで行ったわけではなかったはず。我らを貶めたあの者たちにはそれ相応の罰を与えるべきなのです」
さぁ、と差し伸べられた白き手にシャカは真っ赤な血の跡を見た。
―――血塗られた女神。
いや、魔女だ。
「汚らわしい……よくもそれで女神と名乗れるな」
「今、なんと言った?」
ざわりとテミスの中心から暗黒の渦をシャカは感じ取る。
―――この者の本質は暗黒の闇。
穢れきった闇でしかない。たとえ、どれ程までに姿形は美しい女性の姿を模していたとしても。
「汚らわしい、といったのだ。おまえはすでに穢れている。どのように女神然と気取って見せても、おまえの中心から腐臭が漂ってくるのだ。そのような者の言葉をこのシャカ、信ずるわけにはいかぬ」
怒りが満ちていくのをシャカは感じた。
己の中に存在する力の源から発せられる強い怒りを。
「おのれ……言わせておけば。たかが虫けらのごとき人間の分際で、妾を愚弄するか!?」
急激に広がる黒い奔流に吹き流されそうになりながら、シャカは精一杯踏み止まる。
「くっ……!」
「ああ、テミス!いけないっ!」
ムネモシュネはシャカを庇うようにテミスの力の前に立ち塞がった。ムネモシュネの陶器のような美しい肌に幾筋も切創が生じ、白い肌から表皮が奪われていく。
苦痛に歪むその怜悧な美貌も少しずつ、変容していった。
「邪魔立てするでないわ!ムネモシュネ!妾に従え、ペルセフォネよ!」
強い力を受けながらそれでも必死に耐え、シャカを庇い続けていた。
まるで、ニュサの花園に現れた単眼の巨人たちのように。
「どかぬか!―――ならば、砕け散るがよいわっ!」
「ああああっっ!!!」
傷ツイタ魂ヲ
救ウコトガデキルノハ
貴方。
ドウカ、フタツノ魂ヲ
救ッテ欲シイ……
最後の瞬間、魂の叫びが届いた。
スローモーションのように飛び散ったムネモシュネの肉片が、見開いたシャカの瞳に映る。そして、神の血飛沫がシャカに降り注いだ。
やがて、きらきらと輝く光の粒子となり、刹那の間シャカを取り巻くと、四散した。
「ふん。力無き者が。妾に刃向かえばおまえも同じ道を辿るぞ?」
フフフ……邪悪な微笑を浮かべながら、シャカに近づく。
俯き、小刻みに身体を震わすシャカを恐怖に慄いているのだろうとほくそ笑みながら震える肩を掴もうと手を伸ばした。
バシッと強い衝撃を受けはじき返された手は焼き焦げたような臭いを放つ。ぎょっと己の手を見詰めたテミスは徐々に顔色を失していった。
「神など……いらぬ。おまえのような神など、いらぬ―――!」
「……何だ?これは…...やめろ…やめるのじゃ!ああああっっ!」
迸る光がテミスに向かって放たれ、みるみるうちに呑み込まれていく。引き剥がされていく皮を留めるように、必死にもがく哀れな神の姿をシャカは冷めた蒼い瞳で見つめ続ける。
断末魔のような叫びが上がったその時、静かな声が届いた。
『―――やめろ。人間よ。不完全な力を使えばペルセフォネの魂に傷が生じる』
「誰だ!?」
急速に収縮していく光の渦。
(何者かが邪魔をしたのか?一体誰が?)
周囲の気配を窺うがその力の根源を放つ者の姿は見当たらない。
不意に倒れていたテミスの周囲に炎気があがり、包み込むと姿が彼方へと消え去った。
『わたしは此処だ。此処でずっと…….おまえが訪れるのを待ち望んでいる』
庭園を過ぎた回廊の最奥から輝きを放つ紅く揺らめくような光に気付く。きりと固く口を結ぶと、紅い光を目指してシャカはゆっくりと歩き出した。
―――心の奥に潜む魂の、切ないまでの叫びを感じ取りながら。