さよならメモリーズ
決して認めたくはないものの、心のどこかで納得してもいた。小鷹に悪態をつきながらも近づける星奈の積極性に引っ張られるのは当然だし、どうかしているような内容ばかりでもあれだけ明るく振舞っていれば決して不快なだけのものではない。しかも本人は、大量の崇拝者というフィクションじみた取り巻きまで抱えているほどの美人なのだ。
貧乏揺すりしそうになるのをかろうじてこらえ足を組み替えながら、それでも夜空は小さなため息を漏らした。
今日、夜空はまだ星奈と会話を交わしていない。目をあわせてすらいない。卒業式の間は不可能だったし、この狭い部室でお互いを避けることも難しい。
(一言くらい、胸のすくような台詞でギャフンって言わせてやりたいな。……そうしたらさすがにすっきりするだろうし)
やがて諦めがついたのか、小鷹が頑なに小鳩を見下ろしたまま、早口で言い切った。
「……別に大したことじゃねえよ、ただ、あいつも寂しいんだろって。なんてたって」
「卒業だから?」
「あ、ああ」
「なら、わたしは?」
「は?」
「お前はわたしが、どうだと思うんだ?」
口にしてからもしばらく、夜空は自らの台詞の重大さに気づかなかった。眉尻を下げて、顔全体もふにゃふにゃに歪めて、情けなく鼻を啜り上げる星奈の顔を浮かべていたところだったから、ほとんど呆けていたと言ってもいい。
談話室にいる全員が息をひそめ、ただ小鳩の間の抜けた寝息だけが響く奇妙な静けさに気づいた瞬間、まず口を開けっぱなしにした理科と目が合った。
「あのぉ、夜空先輩……いまのはちょっと、クリティカル過ぎたんじゃないかって理科は……」
幸村もひょっこり脇から顔を出す。
「よぞらのあねき……」
「なっ、なんだお前ら。わたしがなにをしたっていうんだ?」
「えっ?なにがなにが?お兄ちゃんはなんで止まっちゃってるんだ?あははー触っても反応がないぞー。おもしろいなー!」
「うわ幼女が雰囲気をぶち壊しにしやがりました!!!」
ここではじめて夜空が小鷹をまっすぐ見てみれば、マリアの言葉の通り小鳩の上で不自然に腕を持ち上げたまますっかり凍りついてしまっている。夜空の頬に一気に熱さがこみ上げ、勢いで立ち上がってそのまま小鷹のそばへ、肩に手をかけてこちらに振り向かせ、
「い、いい今のはそういう意味じゃないぞ?!わたしはだな、ただわたしだって、そう!小鷹がなんだと思ってるのかは知らないが、わたしだってすこしくらいは寂しいってだけ、知らしめておかないとって、ただそれだけなんだから――」
ドアが小さな軋みをたてて開いた。
「夜空、あんた」
西日に当たった金色の髪がきらきらと光る。ただでさえ大きな瞳を更に大きく見開き、小鷹からなにかが伝わったかのように立ち尽くす夜空へとつかつか歩み寄ってきた星奈の指先は小さく震えている。騒ぎを聞きつけてうっすら目を開けた小鳩にも構わずに夜空の腕を引き、小鷹から引き剥がした彼女は、けれどどうしてかゲームをしているときのような、にやけた表情を浮かべている。
「あんた今、『寂しい』って言った?!」
「お前のことは話していないぞ肉」
「『寂しい』、って、言・っ・た・わ・よ・ね?!」
「……ああ、はいはい。言いました。言いました。これでいいか?」
「なにか投げやりね……まあいいわ。許してあげましょう。その代わり」
鼻息も荒く迫ってきた顔(メイクは完璧なものに戻っていた)をぐいっと離し、指を一本たててみせる星奈。
「あたしが東京に行っても、夜空、あんたあたしに今まで通りメールしなさい」
「意味がわからないんだが」
「即答?!」
おかげで完璧に冷静にはなれた。
「当たり前だろう。何故わたしが一介の肉塊などとメールをしなければならないのだ」
「め、メールくらい、いいじゃないのよう」
「あのお、星奈先輩?」
ひと通り大げさに眉を顰めてみせたり腕をぶんぶん振り回したり拗ねたように腕を組んでみたり、と星奈の一人芝居が果てしなく続きそうなところへ、理科が割って入った。
「理科にもよくわからないのですが、あの、先輩は今まで夜空先輩と特にメールしてましたっけ?」
「そんなのしたことないわよ。必要もなかったし」
「なら何故いまさらメールなんです?」
もっともな質問に小鷹と幸村が同じタイミングで激しく頷く。年少組ふたりは首をかしげながらも早々に興味を失ったらしい。マリアもソファにのぼって小鳩と指遊びなどをはじめた。
星奈は自信満々に胸をはっている。
「あのね、あたしってパパのことがなくとも最高のコネクションでしょう?夜空、あんたコミュニケーション能力に問題があるんだから、だったらそう、この女神のあたしが自分から、自分からよ、夜空と連絡を取り続けたいって言ってるの。それってあんたみたいなコミュ障には願ってもない好機じゃないのかしら」
「……ああ、まさに願ってもいない好機だな……」
「ちょっと意味がわからないんですけど、それなら小鷹先輩はどうなるんですか?」
「だって小鷹とはパパ同士が友達だもの、いつでも会えるじゃない。。それに比べたら夜空、あんたはほうっといたら絶対あたしと連絡しなくなる。だから、勝手にメルアドなんか変えたりしたら、あたしこっちに飛んで戻ってあんたの首を絞めてやるんだからね!」
ふふん、と得意げに鼻を鳴らすおまけが最後についた。
「……だそうですが、夜空先輩」
「……何故わたしに振るのだ」
「いやあ、だって星奈先輩は、夜空先輩に向かってアピールしてるわけですし」
「馬鹿を言うな。あれはただ自分に酔ってるだけだろう」
「それっていつものことじゃないですか」
「いつものことだからこその無視だろうが」
「あ、なるほど。それは正しい選択ですね」
「ちょっとふたりとも?!あたしをほうってこそこそ話してるんじゃないわよっ」
かがんで夜空に顔を寄せていた理科が小さく肩をすくめてみせる。でも、ともっと小さな声を漏らして、
「でも、星奈先輩はたぶん、本気ですよね」
「……ああ」
(それは、分かっている)
理科に言われるまでもない。本気でなければ騒ぎ立てる必要など星奈にはなかったはずだ。だから分からない、とも夜空は思う。分からないけれど分かるような気がする。矛盾しているはずの気持ちなのに、すこしだけ心地よいのは、答えを自分が保留しているからだろうか。
けれど、期待に満ちた瞳で見つめる視線はやはり気まずくて、星奈のほうからは一番遠い天井をしばらく見つめたあと、えいやっと目をつぶり、咳払いをし、夜空はやっと、
「いい」
「なに?!夜空いまなんか言った?!」
「メール、しても、いい」
聞き返されるのが面倒で、区切りながらはっきりと口にした。
星奈は黙ったままでいた。真っ直ぐな目をして腕を組みじっと夜空を見つめている。
やがて沈黙に夜空が耐えきれなくなったころ、破顔一笑した彼女はくるりと後ろを振り向いた。ようやく解放されて肩の力を抜いた夜空をよそに弾んだ足取りでドアの前へ。そのまましゃがみ込んだ。