怪盗スピードスターの初恋
「いった……なんやこれ、追手をまくための罠か、スピードスターの仕掛けた……」
ぼやきながら、何気なく足元の紙を拾って月明かりに照らして眺めてみる。名前と金額が表にされている。売買履歴か何かだろうか。ここの屋敷の主人は、商売人ではないはずだけれど。
見れば、散らばっている紙きれはすべて同じような表だった。こんなにいっぱい何の取引をしているのだろう。
「まあ、どうでもええけど……」
と、部屋の隅にぼこんと出っ張るものがあるのに気がつく。下から押し上げられるように開かれたそれは。
「……地下室?」
この部屋は書斎のように見えるのだが、そこにどうしてわざわざ地下室なんてあるのか。もしかしたら隠し財産でもあるのかも知れない。スピードスターの狙いはそれか!
ここも開きっぱなし、ということは少なくともスピードスターがここに一度は入ったはずだ。
「まだ中におるかも……謙也くんとも会えてへんし」
ぶるっと謎の震えが走ったが、臆している場合ではない。チャンスなのかピンチなのかはわからないが、入ってみるしかないだろう。
ふ、と息を短く吐いて気合いを入れ、光は暗い階段を降りていった。
地下室の中はますますもって暗く、光は何も照らすものを持ってこなかったことを悔やんだ。謙也は昔から暗闇でもよく見える目の持ち主だったから、中にいたとしても大丈夫だとは思うが、光は少々鳥目である。
何も見えないのは、心細い。けっして怖いわけではなく、ただちょっと……緊張するだけだ。普通の感覚だと思う。
小さい頃、夜中にトイレに起きると、必ず謙也がいっしょについてきてくれたことをふと思い出した。実の兄だって眠いからと言って嫌がったのに。
光が謙也のことをどうしても特別に思ってしまうのは、絶対に幼少時代からの刷り込みのせいもあるはずだ。一人だけ大人になって、置いていかないでほしいと考えてしまうのも、きっと。
壁に手で触れながら探るように足を進めていると、指先にさっきまでの冷たいコンクリートとは違う感触がした。
木? 木製の……棚?
ここには何が隠されているのだろうか、と好奇心に負け、両手を棚に突っ込む。冷たい。これは、金属? ひんやりとしていて、この形は。
まさか。
「拳銃!?」
びっくりして手をひっこめると、棚に並べられていた拳銃もいっしょにがたん、と落ちてしまった。その音にまた驚く。
拳銃が隠してある地下室。商売なんてやっていないはずなのに、たくさんあった売買の履歴。
スピードスターは、悪事を働いている人のところにしかあらわれない――。
「中におるんか、スピードスター!」
どうしよう、とパニックになっているところに、どなり声が降ってきた。
「ようこんなことしてくれたな……ただでは帰さへんぞ、この泥棒め!」
ぎし、ぎし、と音を立てながら階段を降りてきたのはこともあろうに屋敷の主人だった。血走った目で辺りを見回していた姿を思い出し、一気に光は青ざめた。あれは拳銃のことを警察に知られるのを恐れて、神経をとがらせていたのだ。
「ちゃ、ちゃいます。俺、スピードスターやない……!」
慌てて告げるが、聞く耳はなさそうだった。聞いてもらったところで事態が好転するとも思えないが。何しろ、光が見てしまったものは彼の身を破滅させるに十分な証拠ばかりだったのだから。
――スピードスターはそこらじゅう走り回るんや。中には危ない場所もある。
白石の言っていた「危ない」とは、こういうことだったのだ。巻き込まれてほしくないと、謙也も言っていたのに。
「言い訳なんかあるんか、こそ泥のくせに。警察にばらされる前に、俺がここで始末したる!」
主人の手には、光るものが握られている。それが何かなんて考えるまでもなかった。
もう駄目だ。殺される。
本当に怖いときは、涙も出ないのだなあ、などと考えながら、光は静かに目を閉じた。
「うわあ!」
どん、という音に覚悟を決めた瞬間、悲鳴をあげたのは光ではなく主人の方だった。
恐る恐る、瞼を上げる。どこも痛くない。血も出ていない。光は、生きている。
「大丈夫か!? 光!」
呆然としている光に声をかけたのは、主人の上に座って押さえつけている謙也だった。
「こいつ、なんちゅうことしよんねん……光になんかあったら、お前こそただじゃ済まさんぞボケ!」
ようやく暗闇に慣れてきた目に、金色の髪の毛が揺れるのが映る。助かった。助けてくれた。
謙也が来てくれた。
「どこ行っとったんや謙也くん!」
気が緩んだと同時に溢れてきた涙を拭いもせず、光は詰るように甘えた声をあげる。子供じゃあるまいし、と思う余裕もなかった。いつも、光を助けてくれるのは謙也だ。子供の頃も、今も変わらない。
謙也だけが、光の特別なのだ。
「謙也! 光くんおったんか!」
「こっちや、白石! 例の地下室!」
光がしゃくりあげている間に、警察と白石がやってきて、主人はその場でとらえられた。警察に引き渡すやいなや、謙也は棚にぶつかりながら飛んできて、光を抱きしめてくれた。
「大丈夫か? 怖かったやろ?」
「謙也くん、は、スピードスター、追ってる、もんやと……」
「えーと……そう、ブレーカー落とされてすぐ屋敷に入ったはええけど、どっちに向かってんのかわからんくてなあ。部屋が荒らされてたから、もしかしてって思ってこっち来たんや」
間にあってよかった、と言ってあやすように背中をぽんぽんと叩く。よかった。本当によかった。もう会えないのかと思ったら、すごく怖かった。
そんなこと、とても言えないけれど。
あの屋敷の主人は、陰で拳銃の違法売買を行っていたらしい。裏組織との関係も含めて、流通経路なども現在取り調べられていると白石が教えてくれた。あの売買履歴をもとに、徹底的に捜査するとのことだ。
「やから危ないって言うたやろ」
「拳銃なんかあるって知らんやろ、普通。全然驚かへん謙也くんと白石さんの神経が理解できんわ」
バツが悪いのを隠すためにそう言うと、謙也はなぜか慌てて「驚いたっちゅうねん!」と弁解し、白石はまたあのきれいな笑みでさらりとかわした。
「光くん、これに懲りたらもうスピードスターには関わらん方がええで」
「でも無事やったし」
「謙也の身にもなったり」
それを言われると、返事に困る。
光が「もうあんな思いはしたくない」と思うよりも、謙也が「もうあんな思いはさせないでほしい」と思う方が強い気がしてしまうのだ。どうにも納得できないけれど。
「――ところで、今回スピードスターは何を盗んだんすか?」
ふと思い出して訊ねると、白石は涼しい顔ですぐわかるんちゃう、と答えた。
「なんで?」
「あー! 新聞に載るもんな! なあ、光も新聞読む習慣ついてよかったなあ! 昔は四コマだけやったけど、今はちゃんと社会欄も読むもんなあ!」
「謙也くん、うるさいっすわ」
ぜんざいハウスの事務室は狭いし、声がやたらとこもるのだ。
作品名:怪盗スピードスターの初恋 作家名:小豆沢みい