小説インフィニットアンディスカバリー
ウェッジの直前で立ち止まったトロルは、棍棒を引き抜くとそれを大きく振りかぶった。あんなものが振り下ろされたら、自分などぐちゃぐちゃに潰されてしまう。すくむ足に鞭打ち、ウェッジはなんとかトロルの脇を転がるように駆け抜けた。直後に棍棒が大地を叩きつぶす音が聞こえる。
後ろを確認しながら全力で逃げる。トロルはすぐに追いかけてきた。
まずい。まずい。まずい。
もふ……。
恐怖に後ろばかりを見ていたウェッジは、いきなり温かくてもこもこした何かにぶつかって尻餅をついた。顔のぶつかった場所を撫でながら、ウェッジはそれを見上げた。
グスタフだ。先ほどの大蛇やらを片付けて、トロルを追いかけていたらしい。
「ク、クマー……」
動物と話せる月印があれば、ここで気の利いたジョークでも言って助けてもらえるのかもしれないが、あいにくウェッジはそんな月印を持ち合わせていない。間抜けな挨拶をしたところで通じるはずもなく、グスタフは怯えるウェッジを見下ろしながら両手を大きく振りかぶった。
もうダメか……。欲をかいた途端にこのざまだ。後悔と恐怖に震えながら、ウェッジは目を強く閉じた。
…………。
待っても衝撃が来ない。
代わりに、頭上で二つの雄叫びが交錯する。
思わず閉じた目をあけ、ウェッジは状況を確認した。
「う、うわっ!」
グスタフがトロルと組み合っている。ウェッジを挟んだまま、力比べをしている格好だ。
とんでもない状況に腰を抜かしたウェッジは、挟まれたまま力比べの様子を見ているしかなかった。
グスタフがやや押され始める。均衡が崩れたらどうなるのかは、考えるまでもない。
それでも動けないウェッジが力比べを見上げていると、ふと、グスタフの視線が下を向いたことに気づいた。目が合う。何か言おうとしているのか?
「……俺を、助けてくれるのか?」
クマと意思疎通の出来る月印を持たないウェッジにそれがわかるはずもないのだが、この時のグスタフの瞳はそう言っているように思えた。本当のところはわからない。ただそう感じたことは、恐怖にすくんだウェッジの身体を動かすに十分な力となった。
這うようにしてウェッジはその場を逃げ出した。直後にトロルの雄叫びが聞こえ、グスタフが押し切られる。そのまま上を取ったトロルは、いいようにグスタフを殴り続けた。
さっき助けたことの恩返しのつもりか? それでお前がやられちゃ意味が無いじゃないか……。
人に親切にされるような生き方をしてきちゃいない。生まれからしてそうだった。それがクマに親切にされたなんてとんだ笑い話だと、ウェッジは乾いた笑いを漏らした。
そして、グスタフが殴られ続ける様子を見ながら、懐に残っていた最後のナイフを引き抜く。
「うおおおおおおおっ」
気合いの咆哮とともに、ウェッジは衝動に任せてトロルの背中に飛びついた。逆手に持ったナイフを何度も何度も突き刺す。投げてだと無理でも、全力で振り下ろせば刃は通る。大したダメージを与えられるわけじゃないかもしれない。それでも繰り返し突き刺す。
何をやっているんだ。クマなんて放っておいて逃げ出せばいいじゃないか。そう思い、心の中で自分を笑ってみるが、ウェッジは逃げ出す気分にはなれずにいた。
痛みに耐えかねたトロルが立ち上がり、ウェッジは力任せに振りほどかれた。なんとか体勢を立て直した直後に、トロルのきつい一撃が飛んでくる。
「ぐはっ」
激しく弾き飛ばされ、全身がばらばらになったような衝撃に襲われる。
朦朧とした視界は、近づいてくるトロルでいっぱいになりつつあった。その向こうにグスタフが立ち上がろうとする姿が見え、ウェッジは自分の置かれた状況も忘れて、少し安心した。
「へへっ……」
腫れた顔を無理矢理引きつらせ、馬鹿をした自分に自嘲の笑みを向ける。トロルが大きく振りかぶる。観念してみると、死ぬことも案外あっさりと受け入れられるもんだと、ウェッジは妙に冷静だった。
「ぐぉおおお」
直後、トロルが声を上げた。さっきまでの雄叫びとは違う、悲痛な声だった。
動かない身体を無理矢理動かし、視線だけでもと上を見る。
トロルの腕に剣が突き立っていた。そして、視界の外から飛び込んできた何者かがその剣を掴むと、トロルの腕を両断しながら振り抜いた。
助けか……。
腕を切り取られて悶えるトロルに、とどめの一撃が入れられる。絶命したトロルが砂埃を上げながら大地に崩れ落ちた。
「うはっ……砂が口に……」
口の中の砂を吐き出しながら、倒れたトロルから剣を引き抜くと、助けてくれた何者かが近づいてきた。
「大丈夫ですか……ってあれ、アクセサリー屋さん?」
見れば、助けてくれたのは、あの英雄のそっくりさんだと言っていた少年だ。
「あっ、ほんとだ」
いつの間にかメイド服の少女もいる。
彼らに救われては笑うしかない。運命とは皮肉なものだ。
「いやあ、助かりましたよ、ウェッジさん」
「いや、い、いいってことよ」
少年に手当を受けながら、ウェッジは事の経緯を説明した。もちろん、自分の動機は伏せてだが。
グスタフの手当をしていたメイド服の少女が言う。
「ほんとうにありがとうございました。てっきりグスタフをさらって姫様をおびきだそうなんてよからぬことを考えているのかと思いましたよ。ウェッジさん、人相悪いですから」
「ジーナさん、それ失言」
「はわわ、ご、ごめんなさい」
「は、ははは……」
いくらか楽になった頬を無理矢理動かし、ウェッジは苦笑せざるを得なかった。
この娘、どこまで本気なんだ……。
「じゃあ、そろそろ街に戻りましょう。手当の続きはそこで。立てます?」
少年に肩を借りて身体を起こす。怪我だらけの上に、敵に助けられている。今の状況を考えれば笑うしかないのだが、ウェッジは不思議と爽やかな気分の中にいた。
「がぅ」
グスタフが声を上げる。
「ん、乗せろって?」
「がうぅ」
「だそうです。すっかり懐かれちゃいましたね」
街へ向かって歩き出す。
グスタフの背中は温かくてもこもこしていて気持ちが良い。少しきつめの陽気に包まれてうとうとし始めたウェッジは、ぼんやりと昔の夢を見始めていた。
それは、封印軍に参加するよりずっと前、ウェッジがまだ子供の頃の夢だ。すっかり忘れていた、心の通じ会える人たちが周りにいた頃の、ずっと昔の夢だった。
伸びて野暮ったくなった前髪をかき上げながら、ドミトリィは切れ長の目を窓の外にやった。星の瞬きをたたえる空とは対照的に、月明かりに照らされた眼下の山岳は、その輪郭を闇の濃淡で浮かび上がらせているだけだ。遠くにはフェイエールの街の明かりが見え、下から吹き上げる風の様子も感じられれば、そこがヴェスプレームの塔の高層にある一室だということを理解させるに十分だった。
作品名:小説インフィニットアンディスカバリー 作家名:らんぶーたん