小説インフィニットアンディスカバリー
そこに浮かんでいたのは、ショックに沈んでいた情けない顔でもなく、ちょっと頼りない男の子の顔でもなく、もっと別の……強い意志を感じさせる男の顔だった。
「僕が……」
もう一度だけ月の鎖を見据えてから、カペルは走り出した。
心の澱を吐き出すように、カペルが叫ぶ。
「……なによ。そんな顔だって出来るんじゃない、バカ」
胸の奥が疼くのを自覚しながら、アーヤの目は、滲む視界にその背中を追いかけた。
心に口を空けた穴は予想外に大きく、思っていた以上にシグムントの存在が大きくなっていたことにカペルは気づかされた。何故だろうと問う自分に答えられず、カペルはただ、呆然とするしかなかった。
もしアーヤがいなかったらどうなっていただろうか。日が暮れて、月が星空に映える時間まで途方に暮れていただろうか。そのまま何もなかったと自分に言い聞かせて、どこかへ姿を暗ましていただろうか。
ともかく、アーヤはそこにいた。
空いた穴は消えなくても、こうして埋め合わせてくれる誰かがいる。他人と関わろうとしなかったままの自分なら、こんな穴が空くことも、埋めてくれる相手に出会うことも無かったのだろう。胸の内に湧いた熱を確かめ、それなら自分が誰かの穴を埋め合わせることだって出来るんじゃないか、と胸中に呟いたのもつかのま、その答えは目の前の女の子がすぐに教えてくれた。
無理矢理こんなところに引きずり出してくれた、ちょっと強引な女の子。自分勝手というか、自己中心的というか。そのくせ素直で、だけど不器用で……。
シグムントの剣を受け取り、そこに二人分の体温を見つけたカペルの胸の内に、生まれて初めて、自分がやらなければならないことがはっきりと浮かんだ。正直に言って、荷が勝ちすぎていると思う。どこまでやれるかなんてわからない。だけど、やれるだけやってみようと今は思える。
「僕が鎖を斬るよ」
アーヤにそう告げ、カペルは月の鎖を見据えた。あと何本あるのかも知らない、自分には関係ないものと思っていた巨大な鎖。世界を腐らせるそれを、新月の民の希望を象徴するそれを、カペルは見据えた。
「僕が……」
シグムントの代わりに、それを斬る。
そう決めてしまえば、迷うことは何もなく、カペルは自然と走り出した。
思いが絶叫となって口をつき、上段から振り下ろした剣に手ごたえとなって返ってくる。何度か見たそれと同じように爆散した月の鎖が、光の粉となってヴェスプレームの塔を包みこむ。
それは、戦いの終わりを告げる光の雨だった。
振り返ると、目を赤くしたアーヤの姿が見えた。
彼女だって悲しいんだ。そんな当たり前のことにようやく気づいたカペルが、「ありがとう」と礼を言おうとした——
瞬間、世界が激震する。
塔自体が身をよじるような激震に次いで、腹の奥底をざわめかせる重低音となった微震があたりを包み込み、塔の構造物の継ぎ目全てから光の粉がこぼれ出した。それはまるで月の鎖が消えるときのそれで、だからこそ、嫌な予感が喉の奥にせり上がってくる。
「ヴェスプレームの塔が……崩れる!?」
その言葉と同時に、二人の足下がぐらりと揺れた。
揺れたというには大きすぎる、崩れ落ちる感触。
堰を切ったように波打つ床を蹴って、カペルは考える前に走り出した。みるみる消え行くアーヤの姿を目で追い、最後まで見えていたその手に飛びついた刹那、カペルを支えていた最後の足場が崩落を始めた。
怪我の痛みならいくらでも耐えられる。だが、エドアルドを襲っている激痛は怪我に起因するものではなかった。
手の甲に灼熱する月印から、何かが腕を通してせり上がってくる。そのおぞましい感覚はすぐに全身へと行き渡り、耐えようとする心そのものを蝕み始めた。
月印が暴走する。
漆黒の翼をまとったドミトリィを圧倒したのは、最初の一撃だけだった。次の瞬間、痛みを耐え、肉体を動かしていた精神そのものが硬直し、力を求める衝動だけが全身を跳ね回った。
力を……もっと力を……。
理性を焼き切られていく感触に気が触れそうになり、燃えるように熱い手を押さえながら、エドアルドはその場にうずくまる。
「月印一つ御しえぬとは……」
新月の民が言う皮肉に肌が粟立ち、役立たずの自分を笑う声も、戦いに挑んだ意志も、ただ強さを求めた心も、破壊の衝動に押し切られて、胃の内容物ともどもはき出してしまった。
空っぽになった身体に跳ね回るのは、暴走する月印の力とドミトリィの蔑む声。「哀れなものだな」と重ねられた言葉が、エドアルドの中の衝動に拍車をかける。
力だけは手に入ったことを教えるように、床をかきむしる指がそれを削り取り、叩きつけた額が分厚い石畳を粉砕した。
俺は何をやっている。俺は……。
「ドミトリィ、引き上げるよ!」
不意に女の声がし、気配が一つ増えた。その声は知っている。サランダの声だ。
「サランダ、何をしている……。レオニード様はどうした?」
「追って説明する。今は一刻も早く引き上げて、あの方をお救いしないと」
「救う!? 何を言っている。まさか……」
シグムント様が勝ったのか? それなら俺も……こいつを……。
だが、エドアルドの身体はその思いに答えない。ただ月印が暴走しているという感覚だけがはっきりとしていて、それが月印を授かったときに炎鳳王に言われた一言を思い出させた。
——汝がその月印を御しえなかったとき、身も心も焼き尽くされると心得よ。
まさに今、自分を襲っているのがそれだと自覚したエドアルドは愕然とした。
月印に、焼き尽くされる……?
「命を拾ったな」
その言葉に視線を上げたエドアルドが見たのは、サランダとドミトリィ、二人の封印騎士の背中だった。
「ま、待て……」
絞り出した声は、その場から消えた二人の耳には届かなかった。
「くそぉ!!」
負けた……完璧にだ……。
叩きつけた拳が床を砕いた直後、エドアルドの怒りは衝動の奔流へと転化して全身を駆け巡る。
「ぐあああああ!」
すり減る理性が思考を白濁させ、身体の中で暴れる衝動に抗うこと以外の全てをそぎ落とす。もはや自分のものとも思えなくなった拳を押さえつけるのに必死で、エドアルドは、部屋全体が震え始めたことにも、自身の月印がどす黒く汚れていくことにも気づかないでいた。
空間全体がぜん動する不快な感触に肌が粟立ち、ミルシェは詠唱の手を止めた。ドミニカがニエジェランにはじき飛ばされ、瓦礫の中から立ち上がろうとしていたバルバガンにぶつかる。漆黒の翼をまとったニエジェラン一人に苦戦をしていたおりだった。
「時間か……」
億劫そうに天井を見上げたニエジェランが呟く。
「ボクはそろそろ退散するとするよ。きみたちもさっさと逃げ出した方がいい。こんなところで死なれても、後の楽しみが無くなってしまうからね」
ふひひと野卑た笑いを上げ、「楽しかったよ」と言い捨ててから、ニエジェランは空間を歪めるようにしてその場からかき消えた。「待て!」と叫んだドミニカの声はニエジェランには届かず、ざわめく空間の中に反響するだけだった。
「……まずいね」
作品名:小説インフィニットアンディスカバリー 作家名:らんぶーたん