囚われの人
「あの……その……お作法に使う道具が見あたらなくて……わたくし、何処かに忘れてきたのかと思いましたの。……ですから……」
もじもじと言葉を捜し捜し述べると、セイリオスは大きなため息をついた。
「分かった」
瞬間、ディアーナの顔はパアっと明るくなる。
「お前にたくさんの課題が出てる。それを全てこなせば今回の事は赦そう」
同時に掲げられた複数の書籍。一瞬の後、全てを理解し終えた彼女は一気に地獄へと追いやられた。
「そ、そんなぁ……」
情けない声を絞り出して、ハッとなってシオンに縋るような目を送ったけれど、彼は肩を竦めたのみだった。
「そんなあ……酷いですわ……お兄様は鬼ですわ……」
涙をすするように、細いかすれ声で必死に抗議する。
「まあ、自業自得って言葉もあるけどな」
独り言のように呟かれるシオンの言葉に、ディアーナは素早くキッと視線を飛ばす。が、その視界の端にセイリオスの姿を捕らえ、再び勢いを無くした。
「だって……わたくしは考えなくてはならない事がたくさんあって……分からない事がたくさんあって……」
言って、ディアーナはハッとなった。
そうだ。自分は今、考えたいことが色々とあるのだ。いや、証明しなくてはならないことが。
「お兄様、わたくしの名を呼んで下さいまし」
突如ズイと身を乗り出してきた妹姫に、セイリオスは一瞬目を見張る。何が何だか分からないでいると、シオンが隣でニヤニヤとしながら頷いた。
「まあ、何の遊びだか分からねえけどな。それで気が済むってんならいんじゃねえの?」
「遊びなどではありませんわ!」
すかさずピシャリと言い放たれた抗議にもめげずに、シオンは変わらずニヤニヤとしていた。ことの展開を楽しんでいるようにも見える。対してセイリオスは、複雑な表情でディアーナを見つめていた。
「名前など、いつも呼んでいるだろう?」
少し困っているような、そんな顔。いつも自然と言っている言葉でも、いざ改まって「言って欲しい」などと言われると戸惑うものだ。ましてや、この上なく過保護だと自分でも自覚している妹姫の要望となると尚更戸惑いは隠せない。
考えること数秒。そっと目を閉じ、セイリオスは口を開いた。
「……くだらないことを言っていないで、一刻も早く課題をやりなさい」
相手にする気はないと訴えるように、彼は机の上の書類に目を落とす。
「むぅぅ……」
しかしディアーナはそれ以上文句は言えない。彼が国王代理として日夜執務に追われていることを知っているからだ。それでも自分への時間を作ってくれるのだと。それくらいは分かっているつもりだ。
「シオン、このおてんば姫がちゃんと部屋に戻るよう見張っていてくれ」
そう言い残すことも忘れない兄に、ディアーナはやはり抗議の視線を送った。
「で? 姫さんは何でそんなに名前にこだわってるんだ?」
自室へと向かう途中で、それまで聞かれないでいたことを問われ、ディアーナは答えに詰まった。
「そ、それは……」
キールは特別だから、名前で呼んで欲しいと思うのだというメイの意見を否定するため。
自分の中で再び確認をし、ディアーナはうんと大きく頷いた。
(そうですわ、キールが特別だからではありませんの。ただ、キールが絶対に言ってくれないから言って欲しいと、そう思うだけですわ。そのはずですわ。……お兄様も言って下さらなかったけれど……いえ、お兄様はいつも呼んで下さいますもの、絶対に言わないキールとは違いますわ! ええ、違いますともっ。……そういえば、先ほどシオンにも呼んで貰いましたけれど、別に特にこれといった感じもしませんでしたわね。……わたくし個人の名を呼んで下さるのは嬉しいと思うけれど、でも、でもやっぱりわたくしは……わたくしは、やっぱりキールの声で……わたくしの名前を聞いてみたいと――)
「姫さん!」
「きゃあああああ!!」
再び。
ディアーナはその場でしゃがみ込んでしまいそうなほどに脱力した。先程と同じように、すかさずシオンが支える。
「おいおいどうしたんだよ」
苦笑してシオンはディアーナの顔をのぞき込んだ。ディアーナは困ったようにただ目を瞬かせ、顔を真っ赤に染めた。慌ててシオンから離れ、すぐ傍まで見えていた自室へと駆け寄る。
「わ、わたくし、お部屋にちゃんと戻りましたわ! お兄さまにちゃんとお伝え下さいましね!! では、ごきげんよう」
口早に言い捨て、ディアーナは己の部屋へと身を滑り込ませた。バタンと閉めて、そして扉を背にすると、そのままズルズルと身体が沈んでしまいそうになった。そんな自分に戸惑いを隠せない。
胸が、ドクドクとうるさいくらいに鳴り響いていた。
「違いますわ……」
震える声で、誰に言い聞かすわけでもなく強い口調でもって、ディアーナはひとりごちた。
「では〜、今日はここまでですね〜〜」
呑気なアイシュの声に、ディアーナはあからさまに顔をムッとさせて彼を見る。それでも彼は気づかないようで、自分の持ってきた書類をまとめていた。
昨日の兄の言葉を受け、今日からは地獄のような日々が始まるのだと、一歩も外に出されることもなく朝から晩まで課題に追われるのだとディアーナは思っていた。しかし今朝アイシュが訪れるのを見て、自分の見当違いにホッとし、そしてまた兄への暴言を撤回しなくてはと思っていたのだ。だがそれもつかの間、妙にそわそわと時間を気にするアイシュを問いつめて理由を訊ねたところで、その思いは打ち砕かれた。
早急に講義を切り上げて課題への時間を作れと言われていると、そうアイシュが告げたからだ。
最初からその心積もりはあったにしろ、それを良い意味で裏切られたと思っていたディアーナにとって、それはあまりにも酷い仕打ちに感じられた。まるで天国から地獄へと落とされたようだ。
「……アイシュは、課題を手伝ってくれないんですの?」
怨みがましい視線をノロノロと彼へと向け、ダラリと机に突っ伏したまま最後の望みをかけて問う。
「ああ〜、僕はこれから〜魔法研究院に行かないと行けないんですよ〜」
何気なく聞いた答えに、ディアーナはハッとなって上半身を起こした。
「キールに?」
問うて、ハッとなって口をつぐむ。しかしアイシュはそんな彼女の様子には気づかず首を振った。
「いいえ〜違いますよ〜。それに〜キールは〜最近研究漬けで〜、全く部屋から出てこないそうなんですよ〜〜」
「まぁ!」
気づいたら、身を乗り出していた。そして更に、何かを言い出しそうになってディアーナは慌てて座り直す。さすがにこれにはアイシュも不思議に思ったようで、少し首を傾げてディアーナを見返した。なんとなくぎこちない雰囲気が流れてディアーナは息を呑む。そして話題を変えねばと思い、慌てたように口を開いた。
「あー、えっと、……それにしてもアイシュとキールは、本当に似てませんわよね」
咄嗟に出た内容は、やはり彼女の頭の中で、ある一人の存在が離れないことを意味しているのに彼女自身気づいていない。
「そうですか〜? まあ〜、確かによく言われますね〜〜」
アイシュは話の流れに素直に従って、呑気な返事を返した。