囚われの人
「だってキールはいつも不機嫌そうにしておりますし、わたくしが話しかけてもいつも嫌そうにしていますわ。アイシュはこんなにも話しやすいのに……」
言いながら、だんだんと声は小さくなっていく。自分で言いながらも、その事実を突きつけられたように感じられ、なんだか悲しくなってきたのだ。得体の知れない不安な心に見舞われる。
「そんなことありませんよ〜。キールにとって姫は……」
と、そこで部屋の扉がノックされた。見張りの兵が現れたようだ。アイシュは慌てたようにノックへの返事をすると、ガサゴソと己の荷物を抱えた。
「ああ、それでは〜、僕はもう行きますね〜〜。課題、頑張ってくださいね〜〜〜」
なんとも気の抜けた声に、ディアーナは眉を顰めたままアイシュを見送る。聞き逃した言葉の続きが気になったけれど、しかしそれよりも、今の彼女にとってはこれから起こる自分の状況に対する心構えを保つだけで精一杯だった。
「うぅぅぅ……」
可愛らしい姫君に似つかわしくないうなり声が響く。
広く小綺麗な部屋の奥、高価なものであろう机は課題の書籍で埋め尽くされていた。その中心に、柔らかな薄桃髪が揺れる。
「こんなにたくさんの課題、出来るはずがありませんわ〜〜」
半分泣き掛けた震える声でもって、ディアーナは彼の皇太子様へ怨みの思念を飛ばす。ただでさえ頭がパンクしそうな程の考え事があるのに、それに加えてこの課題の量はたまったものではない。
あの、セイリオスに課題を言い渡された翌日以降、講師すらも訪れなくなった彼女の部屋は、常に見張りの兵に守られていた。あの日アイシュが戻った後、全く課題が進まなかったことに立腹した皇太子は、次の日から講師すらも寄越さなくなったのだ。朝から晩まで課題に囲まれて、課題に頭を悩まされて過ごすこと約一週間。ディアーナの精神は限界に近付いていた。
だいたい、歴史の細かい部分などを何も見ずに分かるはずがないのだ。悪いのは自分ではない、とディアーナは責任をすり替えた。
はあと大きく息を吐いて何気なく外を見ると、窓辺に近い木の枝で小鳥が可愛らしく中を覗いているのが目に映る。
外はこんなにも平和だというのに、まるで自分は囚人のようだ。
ふと窓から垣間見える場所を目に留めて、ディアーナはうんと頷く。たくさんの書物が並ぶそこに行けば、きっとすぐにも課題を終わらせることが出来るものを得られるだろうと。
「……ええ、そうですわ。こんなの、本でも見ないと分かりませんもの」
思い、そう小さく呟く。それは誰に対してか、言い訳をするかのように告げられた言葉だった。
同時に、もしかしたら、もしかしたら――という愚かな考えが浮かんできてディアーナは激しく首を振る。そして慌てて頭の中で様々な理由付けが行われた。
やれ、課題を少しでも早く終わらせるためだとか、気分転換になるかもしれない、などと――。
「わたくしは、わたくしは課題を終えるために参考文献を探しに行くのですわ!」
誰に言うでもなく、そう強く叫んでみせて、ディアーナはそっと自室の扉へと軽やかに駆けた。
薄暗い書庫の重い扉が開かれて、ディアーナは恐る恐るといった感じで中を覗く。人の気配は感じない。ホッと一息吐いてみせると一歩踏み出す。同行した兵は「こちらでお待ちしておりますね」と告げてきた。なんともガードは固いようだ。
彼女はヒラヒラと可愛らしい衣類を揺らして、一目散に目的の書物があるであろう場へと向かった。目的は『華麗なるクライン王国の歴史』という書物である。なかなかに専門的なことまでもを詳しく網羅した内容だといつか聞いたことがある。
ともあれ、予想以上に簡単に目的のものを見つけ出し、手に取った。
その時――。
視線の端に見つけた人影は、今、彼女にとって一番都合の悪い人物であった。
どこかで会えるかもしれないと期待していた自分と、会いたくない、どうしたらいいのか分からないと思っていた自分。複雑な相反する気持ちと、今実際に起こった展開に、ディアーナは全身が痺れる様な感覚に見舞われた。
薄暗い書庫にある唯一の窓から外を――何かを探るように見つめる後ろ姿は、まだ自分の存在に気づいていないはずだ。
あんなにも真剣に何を見ているのかと、ほんの一瞬気にはなったが、それよりも自身の心拍数の方が気になった。
自然と身体は後ずさりをしており、クルリと身体を反転させる。と同時に、彼女の衣類に引っ掛けられた書物が音を立てて落ちた。
「姫?」
本が落ちる音と聞こえた掠れ声は、むしろ同時にさえ思えて、ディアーナはビクリと身体を震わせた。
驚いたような小さな掠れ声は、思えばもう何日も会っていないキールの声に他ならない。なんだか嬉しいような気持ちになるけれど、だけどあまりにも咄嗟すぎて、たまらず彼女は聞こえなかったフリをしようとした。
きっとそうすれば、彼のことだから何も言わずに立ち去るのだ。そう、分かり切った展開だ。
だが、確実であろう答えを自らで予測しておきながら、なんだか悲しい気持ちになるのはなぜだろうか。
そんなことを軽く考えながら、ディアーナはそのまま足を進めた。
――すると。
「姫っ!」
大きめの声が響き、思わず彼女は足を止めた。いつも落ち着いている彼のこのような声は初めて聞いた。戸惑いに、驚きに、目を瞬かせる中、近づく気配を感じる。
「ああ、あら、まあ、ごきげんようキール。驚きましたわ。わたくし、わ、わたくし、書物を探しに来たのですけれどあなたが既にいらっしゃったなんて思いませんでしたもの。たった今、気づきましたわ」
早口に、何とも言い訳がましい内容を言い立てて、ディアーナは目線を彷徨わせる。
「姫が、書物を?」
あまりといえばあまりだが、当然と言えば当然の驚きを気に留めることなく、ただ投げかけられた疑問にディアーナは頷いた。
「ええ。お兄様がたくさんの課題をお出しになりましたの」
「そうですか……それでここのところお会い出来なかったのですね」
小さく呟いて、そしてキールは慌てたように咳払いをした。
「え?」
大きな瞳を瞬いて首を傾げてみたが、キールは瞳を伏せて目を逸らした。なぜか、胸が痛んだ。沈黙が怖くて必死に話題を捜す。
早くこの場から去りたいという気持ちと、このままでいたいような気持ち。複雑な感情がディアーナの胸を揺らしていた。
「……最近、研究室にこもっていると聞きましたわ。……それなのにこのような場所で、どうしましたの?」
咄嗟に出た話題をただ思いつくままに言葉にする。今彼に出来る話題はこのくらいしか思いあたらなかった。何気ない普通の会話をもってこれたことに、自分への賛辞を送りたい程である。
が、しかし。
「……それは、その、……たまには気分転換が必要だからです」
焦りの色を濃く見せて、キールは早口に言った。そして困ったように息を吐いて瞳を伏せる。
そんな彼の様子を不思議そうに見つめながらディアーナは首を傾げる。そして一瞬の後、ある答えに達した。
その姿は拒絶のものに近いと、ディアーナはそう理解したのだ。