囚われの人
近衛騎士に抱えられた姫の登場に、城の者は慌てふためいて駆け寄ってきた。城は一時大騒ぎになり、皇太子までが姿を現した程だ。
これほどまでに城を騒がしたけれど、しかしディアーナはセイリオスから一言も説教を受けなかった。
レオニスが頭を下げて立ち去った後、彼は「感謝する」と小さく呟いて、そして姫を支える侍女達に妹姫の世話を言いつけたのだった。
――その夜、クラインの空は闇雲に覆われ大雨に見舞われた。
セイリオスは窓の外を見つめながら、妹姫を思った。
クラインに大雨をもたらせた夜から既に20日近く。
この国の姫君は国民の前に姿を現すことはなかった。いや、姫というのはそういう存在なのだろうけれど、しかしいつも太陽のような笑みを城下にもたらせてくれた姫君の姿がパッタリ消えたことに、国民は不安を隠せないでいた。そして人々の間では『姫は病に苦しんでいる』とさえ言われるようになっていたのだった。
そんな中、ディアーナは静かに自室の窓の外を見つめ、大きなため息をつくと窓に背を向けた。所在なげに部屋を一周して、そして椅子に座っては読みかけの本を開く。飛び込んでくる活字を理解することもなく、お決まりのようにハアと一息吐く。顔を上げてはまた、窓を見つめた。
兄セイリオスはあの日以来何も文句を言わなくなった。どころか「しばらく好きにしていなさい」とさえ言い放った。講義も課題も何もかもなく、街に出ることすらも許可された。
それほどにあの日の妹姫の取り乱し様が気にかかったのだろう。腫れ物に触るように妹に接し、何かと気を遣って忙しい公務の合間に顔を見せてくる。
そんな兄の気遣いが嬉しいと思うと同時に、なんだか申し訳なくて、ディアーナは悲しげに微笑むしか出来なかった。
街に出ることを許されても行くことなど出来ない。講義や課題がなくなっても、何をすることも出来ない。
ただこうして、何とはなしに時間を潰す事しか出来ないのだ。
「姫さんは今日も部屋にこもってるつもりなのかい?」
ふいに後ろから掛かった声にたいした反応を示すこともなく、窓の外に顔を向けたままディアーナはゆっくり瞳を閉じた。
「別にやりたいことなんてありませんもの」
ノックをしろだの、勝手に入ってくるななど、そのような罵声は彼には効かない。それが分かっているだけに、ディアーナは力なくそう答えた。
そんな彼女の言葉を受けてシオンは何も言わずに黙って彼女を見る。窓に映った彼の顔は、何でも知っていると言いたげな、何か含みがあるような、そんな表情だった。
ディアーナの嫌いな、表情だった。
「随分やつれたもんだな」
こともなげにそう告げられる。
「……そんなこと、ありませんわ」
大きくため息をついて、ディアーナは軽く首を振った。さも下らぬ事だと言いたげに。
「城下には行かないのか? せっかく皇太子殿下の許可を得たってのに」
「別に用などありませんもの」
「そうかな?」
少し馬鹿にしたように笑った彼に、いつもならばカッと顔を赤らめて抗議の目を送っていたことだろう。だが、そんなことも面倒だというようにディアーナは瞳を伏せた。
「わたくし、あまりお話していたい気分じゃありませんの。用がないのなら帰ってくださいまし」
「会わなくちゃいけないんじゃないか? ……キールに」
言われた言葉に、一瞬で喉が渇いた。乾ききった喉の痛みを感じながらも、ディアーナは必死に平静を保とうとする。あくまでも冷静に、ゆっくりと息を吸って。
「……キールが、どうかしましたの?」
そう問いかけた声が、明らかに震え、そして低くなっていたことに彼女は気づいていなかった。
「嬢ちゃんから聞いたぜ?」
身体中がビリビリと痺れる。
メイが何をどこまで知っているか、何を彼に告げたのかディアーナには分からない。けれど、全てを見透かされているようで恥ずかしかった。何かを言いたくて、けれど何を言えばいいのかも分からない。ただ、何も考えずにガバリと振り返ると、シオンの真っ直ぐな瞳とぶつかった。
「姫さんはキールに会うべきだ。話をするべきだ」
広い部屋に、妙にシオンの声だけが大きく響く。何がそうさせたのかはよく分からない。けれどディアーナは、なんだか無性に泣きたくなった。
随分と久々な気がする。
心動くことなく過ごしてきた数日。それがずっと続くのだと、いつしかそう思い込み始めていた。何も考えずに、ただ時間が過ぎ行くのを待つのだと。
「……どうしてそんなことを言いますの?」
キールにとって迷惑となることはしたくない。この想いを懸命に消すことだけを考えていたのに。
「姫さんの気持ちを一番に考えるからだ」
強い口調に、様々な思考がうち消された。ただ、なんとも言えぬ感情に包まれる。温かな、柔らかな嬉しいような気持ち。こんなにも気遣ってくれる人が傍にいて、こんなにも恵まれているのに、それなのにいつもいつも迷惑をかけてしまう自分が申し訳ない。いつもいつも何一つ満足いくことが出来ない自分が歯がゆい。そして、何もかもに応えることが出来ない出来損ないの自分が悔しくて悲しかった。自分に笑みを向けてくれる全ての人を裏切っているようで悲しかった。
どうしたらいいのか分からなくなった。
瞳を力一杯閉じて、熱くなった目頭に力を込める。そのまま大きな窓へと身を寄せて、そっと縋るように手を伸ばして。
そしてディアーナは大きく息を吸った。己を落ち着かせようと、何度か大きく息を吸って。
「わたくしは、シオン。……あなたのことが好きですわ」
「ああ」
自分でも何が言いたいのか分からない。けれどごく自然に、当たり前のことのように頷いてくれたシオンの言葉に励まされるかのごとく、唇は動く。
「お兄様のことも、メイのこともシルフィスもガゼルもアイシュも、レオニスだってイーリスだって、……それから大通り一つ目の角を曲がったお店のアトエルも、その隣のお家のマランも……小さなツィータも骨董屋のご主人も……わたくしに微笑んでくださる方々、このクラインに住む人々、みんなみんな、大好きですわ」
「ああ。分かってる」
優しい声が、背後からディアーナを包み込んでくれる。何を言いたいのかも分からなかった自分。けれど柔らかな声がその先の答えを導いてくれているかのようだった。
「誰も姫さんのその気持ちを偽りだとは思わない。裏切られただなんて思わない」
ああ、と思った。
シオンという男がただの魔道師などではなく、類い希無き魔力を持つ者として誰もが一目置くのが分かる気がした。彼には『目に見えない何か』までもが見えているのかもしれない。彼には何もかもお見通しなのかもしれない。
そう思うと、すんなりと言葉が出る。
「……キールは、キールは特別なんですの」
ずっと隠し抑えてきた感情。
「ああ」
必死になってうち消そうとしたその想いを隠さなくてもいいのだと、認めて貰えたのだと思うと、身体中から力が抜けていくように感じた。今まで肩肘張って、断固としてうち消そうとした想いが、再びわき上がる。