町内ライダー
その6
学校はまだ引ける時間ではないので、明日夢が来るまでには間がある。
今日は客足も緩やかで、いつもならば散歩の休憩にと立ち寄る客が絶えないが、今は店内には誰も居なかった。
のんびりした午後。非番のヒビキは欠伸をして、大きく伸びをした。
普段ならば、非番でも鍛錬をしているが、今日は香須実と日菜佳が連れ立って出かけてしまっているので、たちばなの店番を押し付けられている。
店番中の鍛錬はご法度だった。ご年配のお客様が多いため、入店した時に筋骨隆々の男が店の中でヒンズースクワットなどしていては、何事かと驚かれてしまうからだ。
時計を見ると午後一時半。二人ともそろそろ帰ってきてもいい頃だ。
大した番組はやっていないだろうけれども、テレビでも付けようか。そう思った時に、ガラガラと引き戸が開いた。
「ただいま戻りましたー」
「ただいまー」
日菜佳と香須実の声だ。小上がりの縁に腰掛けていたヒビキは、上半身を前に倒して、おかえり、と声をかけた。
香須実と日菜佳は、二人ともバッグの他に、紙袋を手に持っていた。どかどかと店内に入り込んできて、紙袋を客の座っていない椅子に下ろす。
「ヒビキさん、店番ありがとうございましたー。お昼まだですよね?」
「あ、うん、まだだけど」
「良かった。作ってきたんで、今温めますね」
そういえば、二人は今日、料理教室の体験入学に行ったのだった。こくこくとヒビキが頷くと、日菜佳と香須実は紙袋から大きめのタッパーを取り出して、温めるためか奥に持って入っていった。
やがて居間に使っている部屋に、昼食が用意された。おかずは肉じゃがだった。
「二人で作ったから、一杯あるんですよ。味は自信ありますから、一杯食べてくださいね」
二人は料理教室で既に食べたのだろう。用意された食事はヒビキ一人分だったが、肉じゃがは丼に入っている。
確かにヒビキはよく食べる方だが、これはいくら何でも多いのではないだろうか。ご飯は普通の茶碗によそってあるのだ。
香須実も日菜佳も料理は下手ではない。二人で分担して毎日の食事を作っているのだから当然とも言える。だがこの量の肉じゃがは、いくら何だって食べているうちに飽きる。
とりあえず、出された物には不平を言わない教育をヒビキは小さい頃から受けていた。やや微妙な気持ちを抱えつつも、頂きますと手を合わせた。
しかし。食べ始めると、不思議とぺろりと丼は平らげられていた。
波荒れ狂う日本海をバックに、「う・ま・い・ぞーっ!」と叫ぶ種類の美味しさではない。飾らないが飽きない味だったのだ。塩加減も良く、何となく食べ続けられてしまう。
「……ご馳走様」
空になった丼と茶碗、お椀を前に、狐につままれたような気持ちで、ヒビキは手を合わせた。
「どうです? 美味しかったですか?」
「うん、美味しかった。……何ていうか不思議な感じだなぁ。そんな猛烈に感動するような美味しさじゃないんだけど」
「でしょでしょ? 凄いんですよ、津上先生のレシピは! 私通っちゃおうかなー」
「そうなのよね。家庭の料理、って感じだし、ものすごく感動する美味しさじゃないんだけど、絶妙なのよ」
香須実と日菜佳は、うんうんと頷き合っている。
何てことはないが、それが凄い。実に不思議だった。
「……で、これを、トドロキとイブキに作ってあげるの?」
「ななな……な、何言ってるんですかヒビキさん! お父さんと夕食で食べるんです!」
「いやいや、肉じゃがが上手い子に男は弱いっていうじゃない。これはトドロキとか物凄く喜ぶと思うよー」
顔を赤らめてわたわたと手を振る日菜佳の反応を面白がってヒビキが言うが、そんな二人を、香須実はやや冷たい眼差しで見ていた。
「……言わせて貰うと、これからの時代は、男の人だって料理くらい出来ないと困ると思うんだけど。ねえ、ヒビキさん」
「……えっ…………いや、俺、出来るし! 出来てるっしょ!」
「出来てるって、本当に思う?」
「……し、しし、少年はっ……、おいしいって、言ってくれたもん!」
ヒビキのサポート役として野外で一緒に行動する事の多い香須実は、初めて彼と山に出かけた時に、彼に言われるまま料理を任せて、それ以来二度とヒビキには料理をさせようとはしなかった。
見た目はそれっぽくなるのだが、何をどうすればこうなるのか分からない味になる。ヒビキにも一応その自覚はあった。
「明日夢君のヒビキさんに対する感想は参考にならない。この際だからヒビキさんも行ったらどう、料理教室」
「…………へっ?」
「あ、それいい、それいいですよ! この機会に料理を覚えちゃえば、お嫁さんも探しやすくなりますよ! 女の子は、自分の為に料理してくれる殿方に弱いんです!」
何だか妙な方向に話が進んでいる。いや俺忙しいし、と話を逸らそうとするが、日菜佳の眼はキラキラと輝いてヒビキを見つめているし、香須実はじとりとヒビキを見つめている。
これは逃げられそうにない。そんな予感がひしひしとして、ヒビキの頬は引き攣った。
「俺はまだ、嫁さんなんていらないの!」