町内ライダー
麻婆茄子と中華風スープ、大根と豆腐のサラダは順調に出来上がっていった。
元々ヒビキの問題点は、味付けを勘と目分量でこなし、味見をしない所にあった。見た目をそれっぽく作るのは得意だった。
生姜とにんにくを細かくみじん切りにするような、手先の器用さを求められる作業は少し時間がかかったが、他は問題ない。
ここには、味見をしないで進めようとするヒビキに、都度味見をするよう注意する先生がいるのだ。
ガッと入れてバッと作ろうとするヒビキを窘める明日夢と芦河もいる。
盗み見ると、奥様方も流石に手際がいい。確かに、ここで料理を習えば相当のスキルアップが見込めそうだった。
「芦河さん、警察のお仕事ってお忙しいんでしょう? どうして料理を習おうと?」
余裕の出てきたヒビキが、そう話しかけると、淡々と作業をこなしていた芦河が、いかにも憂鬱そうな顔をした。
「……結婚をするなら、自分も家事を受け持たねばなりません。自分より相手の方が仕事が忙しい位ですから。自分は今まであまり料理はしませんでしたが、どうせ受け持つなら、美味しい料理を作ってあげたい、と思いました。それで、他の集まりで知り合った津上さんが料理教室をやっていると聞いたので」
折角良い事を言っているのに、芦河の顔は浮かない。悪い質問をしてしまっただろうか。ヒビキは誤魔化すように笑ってみせた。
「いやあ、立派な心がけですね! あちらの奥様方が聞いたらもう拍手喝采、今日から料理教室のアイドル間違いなしですよ!」
「…………止めていただけると大変助かる」
素揚げした賽の目切りの茄子を油から上げながら、芦河は深く溜息を吐いた。
藪から蛇がニ連続。あはは、と力弱く笑って、ヒビキは窓側の二つのテーブルを見た。
まるでそこだけがキッチンスタジアムと化し、間に近藤正臣が立っているのではないかと錯覚してしまいそうな緊迫感が漂っている。
矢車のテーブルには、何やら芸術的な茄子が乗っているが気のせいか。あれが飾り切りという奴か。象や兎を象っている。
というかそれは食べ辛くないか。一体彼はここに何をしに来たのか。
一方の橘は、こちらに燃え移りそうな熱い気迫を漲らせて、黙々と作業をこなしている。
茄子のヘタをダンと落としてバッと横に払う動作など、やたらと力が入っている。
そんなに力をこめなくても料理は出来そうなのだが、彼はいつでも全力投球の男なのかもしれない。
「はい皆さん、茄子の油が大体切れたら、中華鍋を温めて、生姜とにんにくをまず炒めてくださーい」
津上先生の指示が飛んだ。周囲の進行状況が全く関係ない二人はともかく、他の三つのテーブルの生徒たちが口々にはーいと返事をする。
ややあって、じゅうっと油の跳ねる音と、にんにくのいい香りが次々に上がる。炒め役は、是非にと立候補があったので芦河だ。
ヒビキと明日夢は洗い物を片付けながら、テーブルセッティングをする。麻婆茄子が出来上がれば次は楽しい試食だ。
ふと見れば、矢車の華麗なフライパン捌きが見えた。金萬福の料理を見ているみたいに、餡と茄子が華麗に宙を舞い、中華鍋の鍋肌を滑って鍋の中に収まる。
あの人何を習いに来てるんだろう。その疑問が一層深くなった。
「あ、芦河さん、そろそろいいんじゃないですか」
「む、そうか。これが頃合いか」
津上先生が鍋を覗き込んでそう声をかけた。コンロの火が止められて、鍋の中身が大きな平皿へと移される。
「はー、美味しそうだねえ」
「早く食べたいですねっ!」
明日夢とヒビキは、わくわくと顔を輝かせて口々に言った。
皿からはほかほかと湯気が上がっている。餡が絡み、狐色の茄子がてらりと光っている。豆板醤とにんにくの食欲を誘う香りが辺りに満ちている。
「お二人ともいい顔してますね。どうです、料理って楽しいでしょ。この出来た時の、どんなに美味しいのかなっていうワクワク感がたまらないですよね」
津上先生の言葉に深く納得して、ヒビキは頷いた。自分で作っても、ここまでワクワクした事はない。ちゃんと作ればこんなにワクワクできるものだったとは知らなかった。
「佐藤さん達と西山さん達ももう用意できましたか、じゃあ皆さん座って、今日作った料理を頂きましょう」
「頂きまーす」
三つのテーブルでは、食事が始まる。津上先生は前方の材料などが書き込まれたホワイトボードの前の台に戻り、座っていた。
麻婆茄子は辛さも程良く、濃いめの味付けがサラダと良く合う。これが自分が作った料理とは俄に信じ難い。味見大事という事がヒビキにもよく分かった。
そういえば先生の分って取り分けなくて良かったんだろうか。ヒビキはふとそう思ったが、全くの杞憂だった。
「先生、お願いします!」
二人の声が同時に上がった。津上の前で、橘と矢車が皿を差し出していた。
「はいはい。おっ、矢車さんのは今日もまた独創的ですね」
「日々、先生の地平に近づくべく精進を積み重ねております」
「別にいらないと思うけどなぁ、俺なんかそんな大した事ないですよ。矢車さん充分プロ級だし」
「滅相もございません」
丸々とした飾り切りの茄子に餡がかかって乗った皿を見て、独創的の一言で済ませてしまう津上先生もどうなのか。
食べながら、ヒビキも他の面々も、矢車と橘に見守られながら麻婆茄子とご飯を食べる津上先生を見守っていた。
「……どうですか先生」
静かな口調で、橘が口を開いた。津上先生は聞かれて、うーん、と首を捻って暫し考え込んでいた。
「そうですね……。茄子のジューシーさがたっぷり味わえる矢車さんの豪快さと、基本に忠実ながら、わざと焦がしたにんにくの香りが生きてる橘さんの麻婆茄子……どっちも素晴らしくて、甲乙付け難いです。今日は、引き分け、かな」
その言葉を聞いて、津上先生の前で固唾を飲んでいた男二人は互いを見て、その健闘を讃え合うように、ふっと笑った。
確かにここに通えば料理は上手くなれそうだが、それ以上に疲れそうだ。
「さっ、お二人も折角作ったんだから食べてください」
津上先生の言葉に従い、二人とも席に戻り、取り分けてあった自分の分を食べ始める。
本日最大の意外な出来事は、ここに入ってきてから今までずっと眉根を寄せ難しい顔をしていたダイヤの男・橘が、ご飯を食べるとなった途端に顔を和らげ目尻を下げ、実に豪快に美味しそうに、麻婆茄子をかっこんでいた事だった。